全体から初めて子どもが地上にやって来たとき、子どもはまだ向こう側の世界にまどろみ、新たに降り立った地上の世界にあらわな関心を示すことはない。 地上の環境に対する子どもなりの輪郭を形成し、自分が住む世界との一応安定した関係を確立した後、子どもがこの世界に対して探求の目を向ける年齢になって発する最初の疑問いは、「どうして?」という一語に代表されるだろう。 子どもはこの「どうして?」の問いを発したとき、それに対するごく簡単な大人の解答に満足する。それは、ただその時一瞬の興味、一瞬、それがどうなっているのかなと思ったに過ぎないからだ。 けれども、その「どうして?」という問いに、何時も大人の側から何かの答が返ってくることに馴れると、子どもは自分の問いには何か解答があって、問えばその解答は返ってくるものだという感じを持つようになる。 また、子どもの理解力を考慮した適切な解答を与えられることに馴れると、子どもは問いを出しさえすれば、いつも自分に理解可能な解答が存在するかのようにも思うはずだ。 母親に「どうして?」と訊けば、母親は即座に答えてくれる。 子どもにとっては母親は全知全能であり、彼が住む全環境を代表しているのだから、子どもは、問えばすぐに全体から解答が戻ってくると思う。 つまり、問いというボールを向こうに投げたら、それが解答というボールとなって返されて来るかのような感じを持つ。 子どもが、どうして甘いものをあまり食べてはいけないのかと訊いたとき、それに対して母親が、甘いものをたくさん食べると虫歯になって後で歯が痛くなるのだ、と説明すれば、そんな具合になっているのかと子どもは一応納得する。 そのとき、子どもの「どうして?」に対して、母親はその理由をひとつの構造で、因果関係によって説明したと言えるだろう。 子どもはそれで一応納得し、自分が訊いた質問はある種の因果関係に対する問いだったことを知る。 というより、ここでは子どもはまだ自分の「どうして?」という問いが、何を訊いたものだったのかを本当は意識していないかもしれない。 母親に問えば何時でもその解答が返ってくるという状況が、あたかも問いとその解答ををキャッチボールのように、こちらから相手に向かって投げれば相手がこちらに投げ返してくれる、とイメージさせる。 問いとは投げるボールであり、解答とは向こうからこちらに返って来るボールだというように……。 (p182-184) |