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『21世紀への指導原理 OSHO』より

    HOWとWHYの間


 しかし例えば、先ほどの「雨はどうして降るの?」の問いに、畑の作物を枯らさないために神様が水を恵んでくださるのだ、と答えることも考えられる。
 聞いた子は、なるほどそうだったのかと思う。
 そして子どもは、自分がした問い、期待していた理由がそのような(自分にとっての)意味関連を問うものだったのだと納得する。
 子どもの「どうして?」には、このような、問う者本人とその問いの対象との関係性、つまり意味関連を問題にするような方向も萌芽として含まれていた。

 問いのこのような方向性では、解答は構造を伴っていても構わないが、その構造は発問者との関係性、つまり意味関連を明かしていなくてはならない。
「どうして?」という問いは、ここでは「なぜそうなのか?」という感情を含んでおり、解答が問う者を感情的に納得させることを要求している。
 このような問いの方向性を、WHYの問いと呼ぶことにしよう。
 つまりこの解答者は、子どもがWHYを問うているのだと解し、子どもの感情を納得させる究極の理由を答えたわけだ。
 このような子どものWHYの問いに対しては、大人は子どもを納得させられる解答を与えられる場合もあり、そうでない場合もある。つまりHOWの問いでは、解答は何らかの構造でありさえすれば良かったが、ここではその構造が子どもの納得のいくものでなければならないからだ。
 そして、子どもの大部分の「どうして?」は、その中に未分化のWHYとHOWを萌芽として含んでいるといえるだろう。いい換えれば、そのような「どうして?」が、純粋に対象の構造を問いかけるようになったとき、その問いをHOWの問いと呼ぶのだといった方が適切なのかもしれない。

 問いのHOWの方向では、問いを問うたこと自体が当人がその解答を受け取ることができることを意味していた。
 例えば「一から一〇〇までの数字を全部足したら幾つになるのだろう?」と考えた小学生には、その解答を見つけられるかどうかはともかく、その解答の意味が分からないことはありえないということだ。
 科学上の問いでは、問いを発したこと自体が解答を理解できることの保証だった。

 人間がコンピュータに委ねるすべての演算は、そのコンピュータが最後に出す演算結果を人間が理解できることが前提になっている。
 演算の細かい一つひとつのプロセスに付き合うことはできなくても、コンピュータが持つ演算回路と推論構造を与えたのは自分なのだから、科学者はコンピュータが最後に出した演算結果を、自分が作った回路構造の中をコンピュータが実際に走ってみたのだと理解することはできる。
 その結果がその科学者にとって検算可能なものであれ不可能なものであれ、彼はその演算結果が何を意味するかは知っている。
 つまり求められていたのは、問いを発した者が頭【マインド】の中に思い描いている理解体系の中での解答の“位置”とか“値”に他ならなかった。
 キャッチボールの喩えでいうなら、コンピュータに仕込んだ演算回路に入力データを与えるということは、素性の知れたブラックボックスに“問い”のボールを投げ、そこから“解答”というボールが返されるのを待つことだった。
 そこで求められている“解答”は“情報”という返球だったといってもいい。

 この解答の了解可能性は、HOWの問いでは解答の意味があらかじめ発問者によって定義されていることに由来する。
 ここでは発問者はあらかじめ解答の意味関連を承知しているために、解答がさらなる構造として出現することも許容できた。その意味では、HOWの問いは何処まで行っても過渡的な解答しか受け取ることができないともいえる。
 HOWの問いは、もともと解答としてそのようなものしか要求していなかった。
“解答”に対するこの謙虚さのために、HOWの問いを問う者は、問うているその場所で解答を受け取ることができた。
 HOWの問いでは、“問い”というボールを投げた当人は、投げたその場所にいるままで、全体から返されてくる“解答”というボールをもらえた幼児体験をそのまま反復できる幸運な位置にあった。
 西洋文明のエッセンスのある意味での了解し易さは、ここにその根拠がある。
(p186-189)

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