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『21世紀への指導原理 OSHO』より

    WHY:何故か?


 けれども、子どもの「どうして?」という単純な問いも、それをWHYの問いと解釈したとたん、それはけっして答えることができないなものにもなる。

 例えば、子どもが「どうして葉っぱは緑色なの?」と訊いたとして、その問いに本当に答えられる大人がいるだろうか。
 子どもにそう尋ねられたD.H.ロレンスは、「木の葉は緑だから緑なのだ」と答えたという。
 この問いに対する解答に、現代の科学水準で知られている全構造の説明を当てたところで、本当のところ木の葉がどうして緑色なのか答えられる者がいるはずもない。
 その問いを出した子どもはどんな類の解答でも満足するかもしれない。しかしどれほど構造的な、どれほど緻密な因果関係の説明を伴った解答だとしても、「なぜ?」それがそうなのかは結局誰にも答えられない。

 例えば、「あの時、親父は何故ああいったのだろう」と不思議に思っていて、その時はどうしても分からなかったことが、年を経て自分がある状況になってみたとき、ふとそれが何故だったのかが一挙に氷解するような場合がある。
 そして、それが当時の自分には分かりようのないことだったことも納得される。
 また例えば、暗闇が恐くて仕方がなくて、何とか暗闇を恐れなくていいようになりたいと思っている子どもが、「どうして暗闇は恐わいのだろう?」と問うたとして、その恐れる当人がそのままで解答を手にすることができないのは自明だろう。
 たとえこの上なく正当な解答を受け取ったとしても、暗闇に対する恐怖が消えなければ当人が望む解答を得たことにはならないだろうし、また当人が暗闇を恐ろしいと思わなくなったら、その子はもうその問いを問うた当人ではなくなっているのだから。

 だから厳密にいうなら、このようなWHYの問いでは、その“問いを問う者自体”はその解答を受け取ることはできないといってもいい。
 つまり先ほどのキャッチボールの比喩でいうなら、「何故か?」と“問い”のボールを投げた当人は、その場に(その問いを問う自分で)いる限り、“解答”というボールを受け取ることはできないということだ。
 時が経ってその答を手に入れたとき、当人は何時か自分が投げたボールを受け取るその場所に来ており、その場所にいる自分からはその問いはけっして生まれるはずもないものであること理解するに違いない。
 このようなWHYの問いでは、その問いを問う者が、問うたその同じ位置にいる限り“解答”を了解することはできない。
 また、その解答を了解できる者はけっしてその問いを発することはない。

 つまり、WHYの問いが“解答”として求めていたものは、“情報”ではなく“理解”だったといえる。
 ここでの問いが本当の意味で求めているのは、“解答”という“情報”が発問者の頭の中の理解体系のどの位置に納まるかではない。
 本当に求めていることは、問いを発している“自分”の位置の移動に他ならない。
 あるいは、彼の理解体系にゲシュタルトの変容が起こることだといってもいい。
 そして、望まれた“解答”が本当の意味で受け取られたとき、つまりある種の“理解”が起こったとき、彼の位置はその問いを問うたときとけっして同じではないだろう。
 ところが、WHYの問いを発する者は、しばしば意図的に“自分”の位置をその問いに対する“解答(=理解)”を包含しえない範囲に設定する場合がある。
 そのような姿勢から発されたWHYの問いが、けっして“解答”を受け取ることができないのは当然ともいえるだろう。問うこと自体が“解答”の理解を排除する意志表明であるような問いが、“解答”を得られるはずもないからだ。

 HOWの問いが、ひたすら素直に“解答”を得ることに向かいうるのに対して、WHYの問いには、解答を得ることに対する逡巡のようなものがある。
 これは恐らく、HOWの問いが、発問者のエゴの拡大に利するだけであるのに対して、WHYの問いが、必ずしも発問者のエゴの拡大には利せず、逆にエゴの後退を強いるような側面があるからに違いない。それだけWHYの問いは深いところから出てきており、“解答”に対する要求が高いともいえるだろう。
 エゴの後退まで強いて“理解”を求めるこのWHYの問いとは、いったい何処から出てくるのだろうか……。
 比喩的に、HOWの問いを問う私たちの内面の深みをマインドのレベルと呼び、WHYの問いを問う私たちの内面の深みをハートのレベルと呼んでみることもできるかもしれないが。

 HOWの問いが理科的な探求を表しているとすれば、このWHYの問いは文科的な探求の方向を表しているともいえるだろう。
 しかし両者ともに、その解答は常に新たな構造を展開し、解答を手にすること自体がある新たな問いを生むという側面を持つ。
 それは共にある構造を伴った知識であり、一方は科学として体系を整え、もう一方は文学や哲学などとして深化して行く方向といえる。
(p189-193)

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