ところが、この文科的な問いであるWHYの問いが、心情的な納得という方向にひたすら歩みを深め、どのような構造も解答として受け容れなくなる場合がある。 例えば、あらゆる問いがひとりの人格の中でいわば究極的な様相を帯び、一種実存的ともいえる問いに収斂してしまうような場合だ。 例えば、「なぜ世界は始まってしまったのか?」 とか、 「私たちはどうしてここにいるのか?」 というような問いに。 このような問いは、一見WHYの問いであるかのような表現をとる。 けれども、通常のWHYの問いが何らかの構造、意味関連をひとつの解答として受け容れるのに対し、このような究極的な様相を帯びた実存的ともいえる問いは、どのような構造、因果関係、意味関連も解答として受け付けない。 このような問いは、その“解答”がどのような構造にたらい回しをすることも許さず、ただちに実物の答を要求する。いわゆる形而上的問いとも、宗教的問いとも言われるものだ。文科的な問いのエッセンスともいうべきこの種の問いは、構造も意味も解答として受け付けない。 けれども、このような問いがいったい解答などもらえるものだろうか。 この開き直っただだっ子のような問いは、実は初めから解答などもらおうとは思っていないのかもしれない。けれどもまた、私たちの中で何かが、この問いが答えられない限り自分がけっして満足できないことを知っているのも確かだ。 かくてこの問いはとぐろを巻き、そこから抜け出すこともできなくなる。 この実存的なまでに煮つめられた究極の問いは、いつかゆっくりと焦点を定め、渦に巻き込まれるようにあるひとつの“問い”に煮詰まっていく。 すなわち、この問いを問うている自分とは何なのかと。 このような問いは結局、 WHO AM I ?(私は誰か) とか、 WHAT IS ?(何が存在するのか) のような姿を取ることになるだろう。 このような究極的様相を帯びた問いを、先のHOWやWHYと区別して、WHATの問いと呼ぶことにしよう。 これこそは、世界が現象しているその根拠に対する問いかけだ。 森羅万象を現出させているその根拠、それを観ている目撃者、それに立ち合っている立会人、存在するその者、その宇宙の根拠に対する問いかけだ。 私たち人間という宇宙の部分意識は結局この問いに到ることになり、この問いが解決しない限り真の安心に到ることはできないのかもしれない。 いったいこの問いを問うている者は誰なのだろうか……。 この問いを問う内面の最奥のレベルを、私たちは「魂」という言葉で表すのかもしれない。それは宇宙の分身である私たち部分意識が、何時か問わなければならない問いなのかもしれない。 この究極の問いについて、OSHOは実に不思議なことをいう。 すなわち、このWHATの問いに対しては解答というものは存在しないと。 それもそのはずだ、WHATの問いは、どんな解答も拒否するところにその問いの存在理由があったのだから。 WHATの問いは、問いとしては存在する。 しかし解答は存在しない。 つまり、問う者は全体に向かってひたすら問いというボールを投げ続けるが、「全体」が雲の上から解答というボールを投げ返して来ることはない。 問う者がそのボールを受け取れる所まで身を運ぶ(成長する)こともできない。 何故といって、どこに行けば「全体」に会えるというのだろう。何処まで成長すれば、「全体」になったといえるのか。私たちは神の住所を知らない。 私たちは「全体」に会うことはできない。 だが、他にどうしようもなく、ひたすら問い続けることによって、その極まりにおいてある自然現象が起こる、とOSHOは言う。 すなわち、問いが消滅すると。 そのとき、どこからともなく、外側から、内側から、まわり中から猛烈な光りの爆発が起こる、と。 すると、問うていたその者はもうどこにもいない。 “個”というものは存在しなくなる。 「今は私は、解答というものはすべてマインド(思考、想念)に他ならないことを知っている」とOSHOは言う。 これこそが東洋が到達した最大の神秘、東洋がこれからの地球人類に捧げうる最大の宝だ。 (p193-196) |