「自由」とはつくづく不思議な言葉だ。 一見それは「自分の思うがまま」というような事態を、つまり私たちの誰もが願う状態を示しているようでもある。 けれども、少しでも「自由」について思いを巡らしたことがあればすぐにも分かることだが、「自分の思うがまま」などということは語義矛盾以外の何ものでもない。 つまりは、ありえないことなのだ。 その理由は「自由」という言葉が、もともと磁石のプラスとマイナスのような、両方一緒には存在しえない二つの異なる状態、または位相を、強引に一語の中に封じ込めた言葉だからだ。 その二つの異なる位相は、「自分の思うがまま」という表現の中では、“自分”という言葉と“思うがまま”という言葉として表されている。 普通私たちは“自分”が“思う”ことがそのまま実現するのが「自由」だと考える。 私たちは無論、自分の経験ではそんなことが実際は起こらないことを知っている。 けれども、けっして全体を“考える”ことができない私たちは、自分の知らない世界の何処かで、あるいは時間のどこかの片隅で、そんな「自由」と呼ばれるような事態が存在するのだろうかと思う。 “自分”が“思った”ことがすぐにそのまま実現するのは、私たちの身近な経験世界では夢がそれに当たる。だが、私たちは夢の世界を「自由」とは考えない。 私たちは夢を、むしろ「自由」が完全に欠如した状態としてイメージする。 夢の世界の中をさまよっている“私”は、“自分”が観ているのが夢であって実在の世界ではないことを知ることができないからだ。そこにぼんやりした“私”はいるが、醒めた日常の時間で経験するようなはっきりした「自己」はいない。 私たちの経験世界の近辺には、「自由」を連想させるもうひとつの世界が存在する。 それは生きるための何の心配もなかった幼年の記憶だ。 それは純粋には、幼児の全能感の世界ともいえるし、もっと純粋にはまだ“自分”そのものがなかった赤ん坊の世界を指し示しているようでもある。 けれども、普通私たちはこの赤ん坊の世界も「自由」とは考えない。何よりもそこには「自由」を求めている本人がいないからだ。 そして、かすかに自己の兆しが芽生えてきた幼児の全能感の世界も、その幼児の生存そのものが全面的に他者に依存している以上、それもまた「自由」とは考えにくい。 そして確かに、“夢”の世界も“幼児の内面世界”も、この日常世界の現実つまり物理次元での生存という意味では、「自由」ともっともかけ離れた最も無力な状態であるようにも見える。 つまり、この「自由」という一語には、私たちのある種の混乱そのものが秘められていることが分かる。 最も素直には、私たちはこの言葉に「解放」への憧れを託したい。 けれどもそのとき、それが何からの「解放」であるのかを、私たちははっきりと意識しようとしない。そしてそれを、幼児の万能感そのものをこの地上世界で実現することだと理解しようとする。 それが「自由」を、エゴの立場からの“必然の先取り”と理解させた内圧だった。 けれども、そのことは実は起こらないのだ。 なぜなら「自由」とは、私たちにエゴからの脱出を呼びかける遠い憧れを表す言葉でしかないからだ。皮肉な言い方をするなら、それはエゴを卒業させるために私たちの前にぶら下げられた、いわば“人参”のようなものに他ならない。 私たちが、「自由」を達成することはない。 OSHOはいう。 最後のそしてただひとつ真実の「自由」は、“自分”からの「自由」だと。 地上で直接エゴの想いを実現しようとした従来の「科学」も、地上世界を無視して独り子宮の中に寛ろごうとした従来の「瞑想」も、それだけでは半分に過ぎなかった。 (p196-199) |