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『21世紀への指導原理 OSHO』より

    瞑想、刺【とげ】抜きの刺


 毎日の生活の中で、私たちはひとつの内面として存在している。
 私たちは、ときには嬉しく、ときには悲しく、あるいは寂しく、あるいは賑やかに、そしてときには絶望して、ときには歓喜して生きている。
 このような内面こそが、私たちにとって最もリアルなものであることは事実だ。
 そして私たちの願いは、この内面が日々静かな悦びに満ち、あるいは躍り上がるような歓喜に溢れて生きられることだ。そして、苦痛と、後悔と、妬みと、胸つぶれるような絶望の経験を避けたいものと思う。
 自分の内面がどのようなものであれ、私たちは、それが自分のまわりに客観的に動かし難く存在する状況によって決定されたものだと考える。
 その私たちの内面が、実は状況と、その状況を解釈する私たち内部の<ソフト>との相互作用によって決まるものであることを、これまで見てきたのだった。
 そして、私たちのその解釈が、また新たな状況を生み出すことも。

 身の回りに日々展開する現象への対応の仕方は、人に応じまた時に応じて必ずしも一様ではないだろうが、取りあえず総称して、一般に私たちは「体験する」とか「経験する」という言葉を使う。
 だが、この「体験する」という言葉には、大ざっぱにいって二つの異なる対応の仕方が混在している。だから、私たちは自分でも意識せずに、この言葉で二つの異なった態度を曖昧に指示している。
「体験」という言葉が指示するひとつの方向は、自分の中に今ある内的現実を追求、排除、または回避するように「働きかける」ことだ。
 そしてもうひとつは、まさにその内的現実をそれとして、そのまま「体験する」こと、「支える」ことだといえる。

 けれども、実際はこの後者、自分の内的現実をただそれとして受け容れ、支え、感受することはなかなか難しい。
 通常の私たちの「体験」は、その内的現実に対する自分がこれまで築いてきた解釈体系からの即時の反応を含むことになる。するとこの即時の反応はまた新たな内的現実を喚起し、私たちはまたまたその内面に対して自分の判断体系から即時に反応する。
 つまり、私たちの「体験」とは、実は状況に対する私たちの解釈の追求になっている場合が多いのだろう。
 このように自分の解釈体系からの好悪、損得、善悪、美醜などの判断を伴って自分の内面に対応するこの態度を、通常私たちは「考える」と呼ぶ。

 無論、この「考える」という言葉には、自分という<主人>がその考えるプロセス全体を主導しているのだという主張が込められている。
 けれども、通常は“主体的”行為とされるこの「考える」というプロセスを、一度注意深く見てみると、実はそれが内面という連想野におけるさまざまの断片的“思い”の混沌たる奔騰であることも分かってくるはずだ。
 ある意味では、この「考える」という行為の中で、私たちは日常の顕在意識も関与させながら“夢”を観ているのだと言えないこともない。
 そして、一度そのことに納得がいくと、今度は通常“夢”と言われているものが、実は潜在意識の中だけで「考え」ているのであることも分かってくるはずだ。

 私たちが通常「体験」と呼んでいるものが実は「考える」ことであり、それはある意味では“夢”を観ることでもあること、それが私たち一般の無意識レベルに発生する機械的自動過程であることに、古来たくさんの意識的存在が気づいてきた。
 それらの意識的存在たちは、その無意識的自動過程である“夢”が、地上の多くの悪夢を紡ぎ出してきたことも理解した。その人たちは、日常的なそれらの“夢”の煙幕の向こう側に、実は途方もない光の世界があることを体験した。
 その光の世界の体験から、その意識的存在たちは私たちの日常を覆っている無用な悪夢を滅ぼすために、体験そのものを純化する方法を編み出した。
 導師と呼ばれてきたその人たちは、通常の体験から「考える」という機械過程を意識的に排除し、「体験する」ことの本質的部分、外界の印象に喚起された内的現実をただそのままに受け容れ、支えるという意志的な「体験」の形態を発明した。
 それが「瞑想」と呼ばれてきたものだともいえる。

「瞑想」という意志的な態度の中では、内的現実が可能な限り純粋なものであること、それが“自我”とか“心”とか呼ばれる解釈体系からの解釈、判断を含まないことが望まれたのだ。
 つまり「瞑想」の中では、「考える」ことの具体的実体である断片的“思い”そのものを排除する必要があった。
 排除するためには、それに気付かなければならない。
 私たちの中では、通常「考える」ことが機械的自動過程になっている以上、私たちは無意識でいれば「考えて」いるだろう。
 そのため、「瞑想」とはまず自分の“思考”に気づく努力、自分の<意識>の大空の中を走る“思い”の断片に気がつくための努力となった。
 だからある意味では、この「瞑想」という無思考に向かう過程そのものが、元々の自然な過程ではなく、あまりにも膨大な“想念”に過剰に浸されてしまった私たちの生の空間を掃除するための、仕方なしの治療のようなものだとも言えた。

 OSHOは言う。
 瞑想とは、刺【とげ】を抜くための刺だ。本来の健康体に必要なものではない、と。
(p205-209)

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