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『21世紀への指導原理 OSHO』より

    西洋的偏り:物質主義


 これまでの地上で、問いがWHATの問いにまで深まることはごく稀にしか起こらなかった。
 地上では、西洋と東洋で、それぞれきわめて偏った問いの深まり方を見せた。
 しかし取りあえずここで、HOWの問いの方向と深まりこそ西洋的智恵のエッセンスであり、WHATの問いの方向と深まりこそ東洋的な智恵のエッセンスだったといっても許されるだろう。
 そしてOSHOは、この二つの探求の方向、ひたすら対象の構造を問うた西洋的探求と、ひたすら内面への旅に向かった東洋的探求への、分裂とバランスを失した智恵の発展にこそ、現在の地上のあらゆる不幸の根拠があった、と教える。

 西洋はひたすらHOWの問いを深めて行った。
 人々は外界の物質的現れにのみ意識の焦点を合わせ、ひたすら物質世界の仕組みを探求した。この方向にエネルギーを注ぐことによって、外界を「自然」として対象化し、それを操作し、制御し、管理する道を歩んだ。
 その結果、私たち人間はまわりの世界との有機的連関を失い、そのような内的なつながりを失ったことに対する感性さえも失っていった。
 何もかも上手くこなしながら内的に満たされず、自分の何が満たされていないかも知らず、いたずらに駆り立てられて歪んだ。
 不必要なほどの物質的富に取り囲まれながら、なおかつむさぼり求めることは止まなかった。そして何故そのむさぼりが止まないのかを自ら意識することもなかった。
 科学はますます小さなことについてますます多くを知ることであり、科学の究極は無についてすべてを知ることだ、とOSHOはいう。

 西洋の宗教は、人の踏むべき道を「為すべき行為」として教える宗教だった。
 その意味で、西洋の宗教は道徳と同じものになっていた。
 こういう宗教観の下で、人々が宗教をある信念の体系、すなわち信仰を伴った行動規範のことだと了解したのも不思議ではない。
 殺すなかれ、盗むなかれ、の体系が宗教だと。
 この行動規範から外れることは罪とされ、正しい道を踏んでいるかどうかは、常にその人の行為を尺度として測られた。
 この外側に形として表れた「行為」への関心は、やがては「内面」への関心そのものを閉ざしていった。人々は外側から強制される道徳基準に則ることを宗教と考え、それを上手にこなして行ける人間は、限りなく偽善に近づいて行くようだった。
 そのような文化の中では、自分の内面を抑圧するということはごく自然な生き方だったし、それがまた様々な人格的病いとして現象する結果をももたらした。

 西洋文明のこの巨大な空隙を的確に射抜いたのがフロイトだったといっていい。
 だが、フロイトが創始した精神分析はもともと、人間の自然、<タオ>を受け容れることができない西洋社会を前提にしていた。
 自分の中の自然をそのままに受け容れることができずに抑圧することによって対処しようとしたことが、その抑圧されたエネルギーの歪んだ姿での発現を引き起こした。フロイトはそのような人格的病いを対象として、その抑圧された人格部分を本人に認知させることで正常範囲の人格にまとめようとしたといえるだろう。

 西洋世界の外界に対する<意識>の焦点は、目を見張るような科学の発達を可能にしたが、一方その内面の生活をきわめて緊張に満ちた、空虚で偽善的なものにしたことも事実だった。
 しばしば偽善そのものになりかねない宗教から退避するために、人々はさまざまの気晴らしを考えた。
 宗教がセックスを厳格に抑圧している間は、性的な話題とポルノグラフィがその気晴らしの重要な部分になることができたが、それがあまりにも解放されてくると、ついには虚構の勝負と悪夢的な暴力しか気晴らしの種にはならなくなった。
 そのような環境の中で私たち人間はだんだん傍観者になっていった。
 その究極的姿が、カウチポテトと呼ばれるテレビとビデオに釘付けの生活様式であり、その末期症状が、バーチャル・リアリティ、バーチャル・セックスなどと呼ばれる無機的な仮想の世界のセンセーションを求めてさまよう姿だろう。
(p209-211)

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