子どもの驚きに満ちた目、どんなことも面白がる心、センス・オブ・ワンダー。 そこから出てきたはずの「どうして」という問いが分かれていった二つの方向。 何時かそれが、一方では意味を求める問いとなり、また一方では仕組みを解明する問いへと分かれて行く。 子どもの中では確かにひとつの全体であった問いかけが、いつかバランスを失った偏った問いへと変容していく。この二つの問いの方向がもう一度、個々の人間存在の中でひとつにまとまらなければならないのだろう。 東洋の知恵と西洋の知識がひとつにまとまらない限り、次の段階への人間意識への変容は起こらないと、OSHOは教える。 なぜなら東洋はその物質的貧困に心底うんざりしており、自ら持てるもののすべてをかなぐり捨ててでも、西洋が達成した物質的豊かさを達成しなければならないと思い込むことはありうることだからだ。いや、ありうるどころではない、現にある東洋そのものがすべてその道を辿り始めているといっても過言ではない、と。 また逆に、内面の空虚にあまりにも苛立った西洋の若い世代が、自らのまわりに現象している物質的富が何を代償に達成されているのかを感じ始め、それとは逆なものを指し示しているらしい東洋の知恵を、手当たり次第にどんな代償によっても手に入れようとし始めることもありえないことではない。 六〇年代に発生したヒッピーはその傾向を端的に示していた。 東洋が西洋に、西洋が東洋になろうとする可能性だってないわけではない。 西洋を導いてきた原理も、東洋を導いてきた原理も、それだけでは真実の半分にすぎない、とOSHOはいう。 真実はバランスの中にこそある。 西洋を支配してきた<ソフト>も、東洋を支配してきた<ソフト>も、それだけでは偏った世界しか現出しえないことを二〇世紀までの歴史は教えている。 「欲望」は常に極端を求める。 なぜなら「欲望」とはマインドのあり方の別名に他ならず、マインドとは<意識>の一断片、焦点を固定された<意識>に他ならないからだ。 バランスが勝利する。バランスだけが超えて行くことができる。 物質的豊かさを無視しては、何時かそのことによって足をすくわれる。 また人間が内面を持った存在であること、<意識>であることを無視すれば、そのことから起こる偏向は、合理的マインドがどうしても解決できない苛立ちと不満と空虚を発生させることにもなるだろう。 その結果、私たちは“合理的マインド”の顔を立てようとするばかりに、逆に自分の命そのものを断つような行動に走ることにもなりかねない。 いわゆる共産主義体制というものが崩壊した後の世紀末、私たち人類の前に姿を現してきた最大の分裂は、イデオロギー上の西と東の分裂ではなく、心の世界の西と東の大きな分裂ではないだろうか。 南北問題を語るとき、私たちが考慮する観点は北から見た南の貧困でしかない。 その時無意識のうちに前提されているのは、南が北のように物質的に豊かになることであり、北が南のようになることではない。 けれども、もしそうなら、南側もまた北の狂気の世界に参入しなければならないことが前提されているわけだ。 しかし、そこに解決の方途はあるだろうか。 南北問題とは、私たち地球人類がこの時点で統合すべき“何か”の大きな象徴と受けとめるべきものではないのだろうか。 (p214-216) |