地球の環境汚染にせよ、人口爆発、食糧問題、どれをとっても南が北になることの中にその解決の姿は見えない。 南が北になるとは、北と同じ狂気の世界を加速することでしかないだろう。 根本の歪み、偏向は、どれほどのその働きを加速してみたところで、歪みとして肥大することこそあれ、その加速の中で歪みが解消することなどありえない。 確かにある意味では、南は北のように豊かにならなくてはならない。 だがまた一方では、それは南が持っていたある種の内面的な豊かさを犠牲にするものであってはならないだろう。逆に北こそが、従来南が持っていたその内面的な豊かさ、寛ろぎと安らぎを手に入れなければならないはずだ。 解決は常にバランスの中にしかない。 そしてそのバランスとは、「あれかこれか」ではない。「あれもこれも」だ。 そのために私たち地球人類は、太古の昔から東洋が秘めてきた“宝”がいったい何だったのかを、もう一度はっきりと確認する必要があるのではないだろうか。 東洋はいったい“何”を知ったがために、あれほどの貧困に安らぐことになったのか。これは考えてみれば、けっして自明とはいえない疑問ではないだろうか。 過去の東洋をそのまま模倣することに意味がないのは自明だし、また誰もそんなことを欲する者もいないだろう。 模倣すべきは東洋の貧困ではないのだから。 けれども東洋には、地球人類が全体として未だ認知していないある“宝”が、ある無限の“豊かさ”の鍵が隠されているようだ。 私たちは、一人ひとりがバランスのとれた豊かさを達成しなければならない。 内面的に豊かで、寛ろぎ、安らいでおり、また物質的な世界でもこの緑の地球を天国にしなければならない。そのようなバランスが達成されない限り、この星の現況は、その存続すら絶望視されるほどの窮境に入って来ている。 OSHOはいう。 大地がもたらす豊かさを喜び、この世が与える楽しみに歓喜して踊る人間をゾルバ*[注]という。内面的な静けさ、あらゆる必要から解放された寛ろぎ、在るがままの世界にただ<意識>としてあることの喜びに安らいでいる人、それをブッダという。 *[注] ギリシア人作家ニコス・カザン・ザキスの『その男ゾルバ』の主人公の名。 このいわば西洋的英知の象徴であるゾルバと、東洋的英知の象徴であるブッダと、その二つを一身に兼ね備えることがこれからの人間の課題であり、またそのような人間に変容することによってしか、私たちはこの地球上で生き延びられる可能性がない、と。 ゾルバだけがブッダになる、とOSHOはいう。 「仏陀はけっして僧侶などではなかった。僧侶とは、一度もゾルバであることがなかったのに、ブッダたちの言葉に魅せられた人間だ」と。 「ゾルバ・ザ・ブッダが究極の統合だ」 「あの世に憧れてはいけない。この世を生きなさい。それを強烈に、情熱をもって生きなさい。あますところなく、自分の全存在で生きなさい。すると、その信頼全体から、情熱と愛と喜びの生から、人は超えていくことができるようになる」 「彼方なる世界は、この世の中に隠されている。ブッダはゾルバの中で眠っている。それを目覚めさせなければならない」 「まずはゾルバに、この地上の一輪の花になりなさい。そしてそれを通して、ブッダに−−彼方なる世界の花になる力量を稼ぎとりなさい。彼方なる世界とは、この世から離れたものではない。彼方なる世界とは、この世に反したものではない。彼方なる世界は、こちらの中に隠されている。こちらは向こうの現れにすぎず、向こうはこちらの現れていない部分だ」と。 (p216-219) |