人間の探求はいつかひとつの科学に統合されるだろう、とOSHOはいう。 ひとつは外側の世界を探求する自然科学、もうひとつは内なる世界を探求する瞑想の科学。客観の科学と主観の科学を統合したひとつの科学体系になるだろう、と。 さまざまな内的直感と、憶測と、身近な体験による洞察をすべて混在させた宗教、哲学、心理学の諸分野は、瞑想の科学というひとつの内面の科学の中に融合し、統合されてゆく。 心理学は、非健康から平均レベルの社会的適応性までの健康段階を含むだけでなく、仏陀の心理学までの広大な内面世界を対象とすることになる、と。 客観の科学とは、従来のいわゆる「自然科学」を引き継ぐものだ。 <意識>の存在を前提にしながら、もっぱら物質界の仕組みを明らかにしていく。 そこでの探求の手段が“実験”だ。 人間の内なる世界、主観そのものを探求の対象とする内なる科学は「瞑想」と呼ばれる、そこでの探求の手段が“体験”だ。 自然科学の世界では、どのような仮説も“実験”によって裏付けられなければならないように、瞑想の世界ではすべては“体験”によって裏付けられなければならない。ただしここでの“体験”は、自然科学における“実験”とは違って、第三者に証明するための手段ではない。それはあくまでも体験する者自らの確証の証しでしかない。 内なる世界では第三者に証明することには何の意味もない。 自分の世界を自分が探求していくだけなのだから。 だが内的世界にも、物質界の構造にも当たるようなある種の普遍性を持った構造があり、“自分”を探求していく過程でその構造がさまざまな風景を顕す。内的世界の探求者は、その風景が“自分”という<主体>独自のものであることを知りながら、なおかつそこに大きな普遍性への通路があることも知っている。 この「客観の科学」と「主観の科学」の一貫した体系の中には、信仰とか信念、ドグマ、イデオロギーが入る余地はない。 知っていることは知っていることであり、そのことを誰に証明する必要も、また誰に証明してもらう必要もない。 また知らないことは知らないことであり、そのことをどんな信念信条によっても埋め合わせる必要はない。 何故なら、そこに住む人間はそのような内的必要を持っていないからだ。 そこではどんなふうにも自分を偽る必要はなく、また偽ることによっていかなる権力を手に入れることもできない。そこでは誰もが対等で、永遠の命であることが自明の前提とされているために、偽りの知識と権威によって他人を恫喝【どうかつ】することも搾取することもできず、またそのような必要に駆られている存在もいない。 このような世界の中では、「信仰」に根拠をおく従来の宗教は存在しえない。 また体験に基づかない仮説の構築だけを前提とするような哲学も存在しえない。 そこにあるのは<意識>の存在を前提した物質次元の科学、客観世界の科学と、主体そのものである<意識>の内界をどこまでも超越的に探求する主観の科学、瞑想の科学だけだ。 それは、上に主観の科学を置き、下に客観の科学を置いた一貫したひとつの科学体系になる。 この「客観の科学」と「主観の科学」の探求は、ただひたすらセンス・オブ・ワンダーに満たされた喜びの体験そのものであって、それ以外のどんな必要性によっても駆り立てられているわけではない。 主観の科学と客観の科学は、いってみればただひとつの物理学とでもいえる驚くべき相似象を顕し、どこまでもひとつの命の世界の二つの極であることを明かすばかりだ。 ここで、OSHOは面白いことをいう。 すなわち、自然科学は、ますます少ないことについてますます多くを知ることであり、自然科学の究極は無についてすべてを知ることだ。それと逆に、宗教、すなわち瞑想の科学は、ますます多くのことについてますます自分が何ひとつ知らないことを自覚していく道だ。結局、「瞑想」の究極はあらゆることについて何ひとつ知らなくなること、言い換えれば、全体の無を知ることだ、と。 私たちのあらゆる探求は、この両極の中間にある。 そして私たちは外界の探求においても、内なる世界の探求においても共に豊かでなければならない。なぜなら極端は必ずもう一方の極端へのエネルギーを蓄積し、結果的には両極への単なる右往左往の原因にしかなりえないからだ。 この生命【いのち】の世界にはどんな固定的な法則もない。ただ常にいえることは、この世界は内なるバランスによって成り立っているということだ。 OSHOは、科学者は瞑想に向けて大いに刺激を受ける必要がある、という。科学者は、瞑想して初めて、自分が現在やっていることが人類の未来に敵対するものであることを知ることだろう、と。 OSHOはいう。 「科学は敬虔にならなければならない。科学は霊的精神的にならなければならない。科学はそのすべてのエネルギーを外側の世界に消耗すべきではなく、内なる本性、内なる実存という宝を洞察しなければならない。科学には大いなる潜在力がある。だがそれはまだ使われていない。科学は、物質の秘密を洞察することで成功したのとまさに同じく、意識の秘密そのものを洞察する能力を持っている」と。 (p219-222) |