私たちは普段、“自分”が滅びる者であることを忘れて生きている。 どこまでも未来に欲望を投影し、その未来の行き着く先が“死”であることを忘れて生きている。そして欲望の中で行為し、その行為の中で新たな文脈を紡ぎ出し、その文脈の中で再び欲望することを繰り返す。 けれども時として、私たちは自分が死ぬ存在であることを思い出すことがある。そんなとき、私たちは震えおののく。自分が死ぬことをどうしても受け入れられない。それは理不尽なことに思われる。 まわりの人たちがみんな死んでいく以上、また歴史的に永遠の命を保って今なお生き続けている人間が存在しない以上、自分だけがその例外ではありえないことを合理的なマインドは了解している。 だからその不安を覆い隠すためにも、私たちは自分が必要とされる状況や、自分がしなければならないと思っている仕事に懸命に埋没しようとする。そうやって、自分の肉体の生存、家族の生存、今の日常が、永遠に続くかのような幻想を持っている振りをする。 けれども、この私たちの必死の努力にも関わらず、私たちはどこかで、自分は必ず死ぬことを知っている。 「自分が必ず死ぬ」ことを知っている、これが「肉体の声」だとOSHOはいう。 そしてその「肉体の声」に自己同化したとき、私たちは震える、と。 けれども一方、私たちはどうやってみても自分そのものが死ぬことを想像できない。 あたかも、死んでいく自分を見ている自分がいるとでもいうかのように……。 私たちはこれほどにもたくさんの他人の死に取り囲まれながら、なおかつどこか無意識のうちに自分の永遠の生を前提にしているかのように、欲望を未来に投影する。 OSHOは、これほどたくさんの死に取り囲まれながら、私たちがなおかつ死なずに生きていられるのは、実は私たちの中で何かが、自分はけっして死なないといい続けているからだという。 絶えざる「肉体の声」にも負けずに生きていられるのは、もっと深いところで、自分がけっして死なないことを私たちが知っているからだと。 この内側からやってくる「自分はけっして死なない」という声こそが、<意識>の海からの声だ。 この二つの声が混線して、私たちの日常はこの上なく不透明なものになる。 OSHOはいう。 「私たちの無知の中には、何時も死の恐怖がある。だが私たちはあたかも死など存在しないかのように生き続ける。無知なる人は一瞬一瞬死を恐れているにも関わらず、まるでそんなものは存在しないかのように生きる。知るに至った人も、死など存在しないかのように生きる。だが彼はいかなる瞬間にも死が起りうることを知っている」 「恐怖は肉体と魂の互いの自己同化によって起る。……。二つの声が混乱する。私たちはその二つの別の旋律が混ざり合っていることに気がつかない。そしてあたかも同じ楽器の旋律ででもあるかのようにそれを聴く。それこそが誤りだ」 肉体に関する限り、私たちには永遠の生はない。肉体は滅びるものだ。 肉体に代表されるあらゆる物質的なもの、そしてその物質的なるものの反映としてのあらゆる形あるもの、それは必ず滅びる。けっして生き残れない。そのことに関する限りいささかの可能性もない。それは滅びる。 けれども私たち自身、形あるものを現象させているこの「舞台」、この「今ここ」、この「立会人」に関する限り、それはけっして滅びることがない。 そしてここでOSHOは、不思議なことをいう。 すなわち、圧倒的、絶対的な死の現前に出会うと、「私は肉体だ」という幻想は突然消える、と。 「死の恐怖が消えるのはそこに逃げ場がないからだ。その時、肉体が死んで行くという事実は確かなもの、逃れられない運命になる。それこそが肉体の宿命だ。それを救う道はない。死こそが肉体の本性だということを理解した瞬間、肉体を超えたものは一度も生まれたことがなく、それゆえ死という問題は存在しないことが突然明らかになる。かくして、魂にとっても恐怖は消える」 そして二〇世紀末というこの特別の時代、私たちはまさに人類的規模においてこの体験を通過することになるのかもしれない。 (p227-230) |