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『21世紀への指導原理 OSHO』より

    主人を囲む乞食たち


 大なり小なり、私たちは“自分”の存続を願って苦闘してきた。
 そして自分の範囲を、まず肉体という皮一枚の内側に閉じ込められた存在としてイメージしてきた。ついでその肉体の生存を拡張して、その生存の確実性を、安全保障を願って苦闘してきたといっていい。
 また、その安全保障がある程度得られたところで、今度は自ら認知されることを願って苦闘してきた。そのような認知の願いそのものの根拠にも、自分の死を回避したいという絶望的なあがきが秘められていたかもしれない……。
 その認知を求める闘いの中で、私たちは大いなる「比較」と「競争」を繰り広げてきた。他者との「比較」によって、実は私たちは、自分の生存の証しを立証しようと奮闘したのだろう。

 けれどもOSHOは、肉体が滅びるのと同じく形あるものはすべて滅びると教える。
 物質的および(現在の地球の科学で)非物質的な何らかの姿あるものを高く掲げて、そこに自分のアイデンティティを見出そうとしても、それは必ず滅びる。なぜなら形のあるものはけっして自分ではないからだ、と。
 自分は、けっして対象にはならない。
 逆に、<主体>は絶えず背後に引き下がることによって、あらゆるものを対象にする。対象になりうるものは実在ではない。実在ではないものは束の間の現れであり、それは必ず滅びる。唯一滅びないものはけっして対象になりえない<主体>、即ち<意識>であり、<意識>は始まることも滅びることもない、と。

 OSHOが教える通りなら、確かに私たちの過去の努力は、不可能を可能にしようとするような、まったく無意味かつ不毛な努力だったことになる。私たちは確かに、常に形あるものに自己同化し、その自己同化したものの永続を願ってきたのだから。
 では、“自分”の永続を願った結果のこれまでの努力は、本当にすべて無意味な努力だったのだろうか。そんなことがありうるだろうか……。
 肉体は滅びる。それは確かだ。そんなことは教わらなくても分かっている。
 しかし、私たちの財産は、あるいは国家は。いやそれが駄目なら、自分の作品、名声は。
 確かに私たちは知っている。そんなものが何時までも残りはしないことを。確かにそんなものに、何の意味もないだろう。しかし、だからといって……。

 自分が住んでいた土地に将来誰が住むことになったところで、そんなことが自分に何の関係があるだろう。いずれにしろ、誰かは住むだろう。
 百年前にも誰かが住んでいたように。
 それがこの自分と、遠く血の繋がりがある人間であろうとなかろうと、そんなことで何が変わるというのだろう。
 どっちにしても、誰もが何処かで血は繋がっているのだ。

 私たちの“自分”である<意識>は、肉体、家族、子孫、国家、財産、名誉、評判、作品、経験、思考、感情、気分など、さまざまの物質的また非物質的対象に自己同化しようとしてきた。
 そのような何らかの姿に寄り添うことで永久に留まろうと画策してきた。
 けれども確かに、どのように思い込んでみても、“自分”である<意識>はけっしてそのような姿あるものと共に滅びることはできないし、またそのような姿ある対象はけっして永遠であることはできない。
 物質的であれ非物質的であれ、姿あるものは間違いなく、私たちの眼前で、<意識>の中で滅びるだろう。
 OSHOはいう。
「幸福、不幸、悲しみ、喜び−−それらは、やって来てはまた去る。それは、あなたをとり囲む乞食たちだ。立会人は、まさにその中心に留まる−−無因の、不変の、<一なるもの>として」

“主人”でしかありえない私たちという<意識>は、どんなふうにしても、この千変万化して群がり集う“乞食たち”といっしょに心中することはできない。またどれほど自己同化してみても、その“乞食たち”を自分と同じ永遠の実在とすることもできない。
 けれども私たちは、どうしてもそれを受け容れることができず、常に何らかの“乞食”に自己同化し、その自己同化した“乞食”の永続性を願った。
 その結果は、ただ自分の不生不滅を忘れ、滅びざるをえないものの永続を願って苦しみを味わうだけのことだった。そして、唯一のときである「今」を生き損なった。
 形あるものは必ず滅びる。
 そして、滅びることを見届けるその者は、生まれることもなく滅びることもない。

 そして実はそれは、常に「今ここ」で起っている生命現象そのものの裏と表に過ぎない、とOSHOはいう。 (p230-233)

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