「……そして、その静なるものはすでにそこにある。自分で走って、見てみなさい。あなたの中の何かは走っていない。それは走ることができない。あなたの意識は静止したままだ。人は世界中を動き回わるかもしれない。だが、内側の何かは、けっして動かない。それは動くことはできない。そしてあらゆる動きはその不動の中心を根拠にしている」 「夜、人は色々な夢を見る。夢は変化する。だが、それを見ている者、目撃者は同じままだ。昼、人は様々な気分に立ち会う。悲しみ、怒り、幸福。気分は変わる。だが目撃者は同じままだ。健康な人は、健康に立ち会っている。不健康な人は、病気に立ち会っている。金持ちは、富に立ち会っている。貧乏人は、貧乏に立ち会っている。が、絶えることなく、ひとつのものは同じままだ。そしてそれは立ち会うということだ。その他のことはすべて原因があって起る。この立ち会うということは原因なしにある」 「自分に起っていることを見てごらん。それは、原因があって起ったことだろうか。もしそれが原因があって起ったことなら、あまり気に病むことはない。それは幻影の世界に属することだ。あなたが探し求めているのは、無因のものだ。立ち会うというそのことだけが、唯一、無因のものだということが分かるはずだ。それは原因があって起ることではない。それを起している者は、誰もいない」 「大空を見れば、その空は広大だ。だがそれを見る者、その目撃者はもっと大きい。さもなくて、どうしてその空を見ることができる。人の意識はその大空よりも大きくなければならない。さもなければ、どうしてそれを見ることができよう。見る者は見られる者より大きくなければならない。それしかありようはない」 「人は時間を見ることができる。こう言うことができる。『今は朝だ。今は午後だ。今は夕方だ。一分が経った。一年が経った。ひとつの時代が過ぎ去った』と。この見ている者、この意識の方が時間より大きくなければならない。そうでなくて、どうして見ることができよう。見ている者は、見られる者よりも大きくなければならない」 「あなたは空間を見ることができる。あなたは時間を見ることができる。それなら、あなたの中にいるこの見る者は、その両方より大きいのだ。ひとたび光明を得れば、すべてはあなたの中にある。すべての星々はあなたの中を巡り、世界はあなたから起り、あなたの中に溶け入る。なぜなら、あなたこそその全体だからだ」 OSHOから出てくるこれら一連の言葉が、繰り返し繰り返し言明していることは、<意識>こそが外界と内界のあらゆる現象に“立ち合う不動の一点”だということだ。 外界および内界のあらゆる現象は、この“不動の一点”に対面することによって現象している。 <意識>が“無因”のものであること、あらゆる変化に“立ち合う不動の一点”であることを繰り返し言明するこれらの言葉を真っ正直にとるなら、私たちは<意識>についてのあるイメージを形成してゆくことができそうな気がする。 それが“無因”であり“不動”であるなら、それは「物質」と呼ばれるものではありえないだろう。いうまでもなく、「物質」とは形あるもの、すなわち変化の相そのものの基盤を表す言葉だ。外界の形象も内面の風景も、あらゆる内容物は変化する。それは変易の相だ。変化する内容物は、どんな微細なものであれ何らかの物質的なるものによって支えられているだろう。 その変易の相は、決して変移することのない何ものかによって支えられている。そうでなくてどうして、その変化の相を映し出すことができるだろう。 その何ものかは出現することも消滅することもできない一点だ、とOSHOはいう。 それは“無因”のものだ。 それは全物質界を(外界および内界の森羅万象を)“支える”一点であり、かつまた全物質界を内に“包含する”「全体」でもあるはずだ。 だから、そのような無因のものの当体を表す言葉として、東洋の宗教伝統は「無」とか「空」とかいう言葉を使ってきたのだろう。 けれどもまた、矛盾するようだが、私たちの言語にはその“「物質」でないもの”を指示する“物質的な”言葉もあるはずだ。私たちは私たちなりに、これまで私たちの物理次元であらゆる対象を、何らかの言葉で指し示してきたはずなのだから。 私たちが“それ”を指し示すために使用してきた物理次元の言葉は明かだ。 物理次元では、その“「物質」でないもの”を、「物質」の無い状態、すなわち「真空」という言葉で指し示してきたのではないだろうか。 <意識>が不生不滅そのものの名前であるなら、物質世界でのその名称をとりあえず私たちはここで「真空」と呼んでみることにしよう。 するとその「真空」という無物質の“不動”の一点こそが、全物質界を内に“包含し”、浮かばせ、あらゆる内的および外的諸現象を“映し出し(=支え)”てきたともいえるのではないだろうか。 この大宇宙に遍満するその「真空」に繋がることによって、私たちは初めて<意識>でありえているとも。 その「真空」に繋がることで、私たちは初めて<主体>でありえている、といういい方もできるのではないか。 私たちの“自分”とは、物理次元の日常用語に煎じ詰めれば、この大宇宙に遍満する「真空」そのもののことだ、ともいえるのではないか……。 <意識>はよく「鏡」に喩えられる。 あるいは静謐でさざ波ひとつ立てない深山に囲まれた湖面に喩えられる。その湖は千変万化する森羅万象を映し出し、しかもその万象に自己同化することがない。 また<意識>は、マインドという雲を浮かべた大空にも喩えられる。 大空とは、その中に漂う雲を浮かばせながら、しかもなおその雲とは隔絶した広がりを意味する。確かに、「鏡」がそれ自体変化したのでは、変化の相である物質現象および心的現象を映し出すことはできない。それ自体生滅するものが生滅の相を映し出すことはできないわけだ。 「鏡」が万象を映し出すように、また大空が自らの内に雲を浮かばせてしかも雲に自己同化しないように、「真空」は内にあらゆる森羅万象を浮かばせ、しかもその森羅万象に自己同化することなく、それを“目撃”し、それに“立ち合って”いるのではないだろうか。 OSHOは、「無」とは空虚ではないという。それは手で触れることもできる程に確かで濃密な実在なのだと。 (p233-237) |