「真空」、濃密な<意識>の海 これまで地上の物理学で「真空」と呼ばれてきた濃密な<意識>の海の中に、この物理次元の宇宙は浮かんでいる。 とりあえず、そう言い切ってみよう。 古典物理学が発見した物理次元の最大の法則のひとつが、「慣性の法則」だったことはおそらく偶然ではないだろう。 「慣性の法則」こそが、物質現象を観察した地上の科学者に「空間」と「時間」を“発見”させた物質次元の法則だった。 「慣性の法則」こそが「思い」と「現れ」の間に“ずれ”を生じさせ、そのようにして「時間」を生みだし、その時間に拘束された在り方である「欲望」を生み出しすことになった根拠であったのかもしれない。 「慣性の法則」は、物理次元を<意識>の不良導体とするために、<意識>が採用した基本方式といってもいいかもしれない。 そして「肉体」とは、もともと<意識>の不良導体として創造された物理次元に、<意識>の意図を浸透させ現象させるために<意識>が案出した“<意識>の窓付きロボット”のようなものといえないだろうか。 この「肉体」という窓を通じて、<意識>は物理次元に自らを表現し、その<意識>と「物質」の交点に、私たちの“自分”という“思い”が浮かんでいるのだろう。もしかしたら、このゲームの一番重要な焦点として……。 物理次元に展開された<意識>の経験は、濃密な<意識>の海である「真空」の中に、ある独特の密度の想念の世界を形成するだろう。 シンクロニシティ、テレパシー、サイコキネシスといった、これまでの地球の科学の中で“超能力”とされてきたあらゆる能力の方が、<意識>の海の中ではかえってごく自然な本来のあり方だったのかもしれない。 想念、ビジョンが<意識>の内容なら、「肉体」という“窓”でその物理次元の反映を見ている私たちは、想念の変化を時空内の物質的変化として眺めているのだろう。 <意識>の不良導体である物質が作る世界すなわち物理次元では、大なり小なり<意識>はそれだけ粘性を帯び、本来の軽さ明るさの何分かを失うのかもしれない。 <意識>の海がどんな意図から<意識>の不良導体などというものを生み出したのかは、その問いが消える<意識>に参入できない以上分かるはずもないが、私たちが地獄を物質的なるものが充満した“地の底”にイメージし、天国を最も物質の希薄な“雲の上”にイメージしたのも、ある種の感覚があってのことだったのかもしれない。 もっともそれが、自分が大地によってまるごと生かされていることを忘れる傲慢の原因にもなったのだったが……。 宇宙飛行士たちの体験談によると、宇宙空間では地上の日常とはまったく違った明晰な意識状態になるという。古来、瞑想者は高い山に登ったものだった。物質の密度の高まりがそのまま、<意識>の海である「真空」の浸透度を下げているのだろうか。 この濃密な地上では、すべてが曖昧になってしまうのかもしれない。 「午後の授業」のジョバンニの心境のように。 地球上の“窓”として開いた私たちの肉体は、地球のオーラである濃密な大気圏に守られなければ生きてはいけない。つまり、肉体とは<意識>の浸透度がある程度希薄な、不明瞭な世界に適合できるように案出された窓だということだろう。 この世界の体験を通して生み出された想念は、純粋な想念の世界である<意識>の海に何かを返し、そのようにして、創造性そのものである<意識>の「自由」と「全能」の創造遊戯に貢献し、参加しているのだろうか。 <意識>の海のこの「自由」と「全能」こそ、地球というこの濃密な物理次元の住人にとってはまことに難解とも、厄介ともいえる代物で、あらゆる悪も、苦痛も、悲惨も、この<意識>の「自由」と「全能」の反映に他ならないことになるのだろう。 「大審問官」の物語を語ったイワン・カラマーゾフは、この<意識>の「全能」と「自由」を保証するためにあなたの物語も存在したのだといわれて納得するだろうか。 それは分からない。しかしそれが分からないということの中に、イワンの自由があり、栄光と悲惨があるとしかいいようがない。いずれにせよ、<意識>は不生不滅であり、一つひとつの“窓(=魂)”は、自分が望む方向に顔を向け、その方向を自分の未来とする自由を持っているのだから。 かくて、<意識>の創造は光子/光波を媒介とし、原子の構造を媒介としながら、物理次元の超微粒子、微粒子、粒子を通じて心的現象と物質現象を展開し、それを超越的な「真空」に映し出して、生命の「歓喜の歌」を永遠に歌い続けているのかもしれない。 (p242-245) |