home > 仕事 > 『21世紀への指導原理 OSHO』より > 巨大ドームの中の塩粒


『21世紀への指導原理 OSHO』より

    巨大ドームの中の塩粒


巨大ドームの中の塩粒

 おそらく物理次元のこの世界を目の前にしていなければ、すべてはあまりにも単純なのかもしれない。
 一瞬の思いは常にその思いの姿を現し、一瞬の遅滞もないだろう。私たちの体験の範囲でいえば、“夢”の世界だ。
 けれども、私たちが現実と考えているこの物理次元では、私たちの「思い」とはまた別に、その世界固有の構造と法則、約束ごとがあって、世界はそれに則って変化して行かなければならない。

 例えば今、目の前に泰山木の木がある。
 大地に根を生やし、日の光りに向けてきらきらと大きな葉を広げている。
 私たちの物理次元でも間違いなく生命現象と呼ばれるひとつの姿だ。だがこの生命現象が物理次元の中にどのように現象しているのかを思えば、この単純な命の営みも、何ひとつ私たちの知的説明の範囲の中におさまるものではなくなる。
 今ここに泰山木の命の営みを物理次元に現象させるのに、<意識>の海はどんな仕組みを使っているのだろう。

 物質界はさまざまな原子で構成され、いくつかの原子が組み合わさって物質のタイプである分子が構成されるという。しかもその原子も、昔考えられていたような単一の塊ではなく、原子核を中心にその外側に確率の雲として定義される位置に電子が分布するというような代物だという。
 この目の前に見えている緑色の泰山木の葉も幹も、大部分が「真空」によって満たされ、そのごくごく微少な部分を、極微の物理的ともいえる存在が、ある限定された範囲の中で不確定の振る舞いをしているというような不思議なものであるらしい。
 この泰山木はたくさんの原子からなっているわけだが、例えばその原子の大きさのイメージは、その原子を野球のボール位の大きさとすると、野球のボールは地球位の大きさになってしまうというようなものらしい。つまり、針の先ほどの空間に何百万もの原子が乗るといった大きさだという。
 そしてその原子を構成している素粒子の世界たるや、『踊る物理学者たち』の著者ゲイリー・ズーカフ氏の比喩を借りれば、十四階建てのビルほどの直径があるサンピエトロ大聖堂のドームの真ん中に塩を一粒置いたような原子核を中心にして、ドームの外周をその原子核の数千分の一の質量であるほこりの粒のような電子が回っている、といったような案配のものであるらしい。

 いくら物質が生きていると考えたくても、その広大なサンピエトロ大聖堂のドームの外周を、まさかその在るか無きかのほこりの粒が自らの意志で飛び回っていると思う者はいないはずだ。しかも、素粒子はほこりの粒というような「もの」ですらなく、もともと物体としてイメージすることすらできないものだという。それならむしろ、物質を構成している原子とは、「真空」の海の中で物理次元というある種の“確かさ”の中に出現しようとする「傾向」、一種の「意志」、「兆し」のようなものだ、とでも言った方がましではないのか。
 つまり、どんなに頑固な唯物論者も、物質そのものの中に排他的に独立した生命の根拠を見つけることはできないだろうということだ。
 唯物論の射程そのものが、生命世界までは届かない。それは、せいぜい生命否定の論理をしか構築することはできない。

 これまで私たちは「目に見えるものしか信じない」といいながら、実際は“目に見えないものを根拠に存在している物質界”を信じていたのだということを、現代物理学そのものが明らかにしてしまった。
 従来の自然科学が<意識>の存在を否定してきたのは、それが“目に見えなかった”からだが、実は、自然科学が実在するものと前提してきた物質界そのものが“目に見えない”ものを根拠に存在していた。古典物理学が前提していた“分割しえぬ物”として存在しているはずの「剛体」の概念は崩壊した。
 ある意味で、物理次元に「物質」は存在していなかったのだ。
 万象の中に“物”は存在しないこと、“個物”とは、物理次元に投影された「自我」に他ならないことを証明したのはドイツの神秘詩人科学者クラーゲスだったが、今や物理学そのものが、究極物質究明の過程で原理的にはそれを証明してしまった。

 私たちの惑星の科学者たちは、日々の喜びと悲しみの根拠そのものである<意識>の存在を否定し、“目に見える”「物質」の存在だけを確かなものとして研究の対象としてきたが、「物質」も実は不可視の根拠の上に現象していた。
 そして今や“目に見える”「物質」の根拠がますます曖昧になって行く中で、その確実さの根拠であった“目に見える”というそのことの神秘がますます前面に出てくる。
「物質」の存在がますます不確実になって行く中で、<意識>の存在、<生命>世界の在り方が圧倒的なリアリティとして姿を現してくる時代が始まったらしい。

 泰山木が生きているというとき、それが巨大ドームの中の塩粒とドームの外周を回るほこりの粒だけが生きているという意味でいうのだとしたら、そんなほこりの粒がどうやって塩粒のまわりに数学的な確率の雲として出現したりできるのだろう。この巨大ドームのまわりに確率の雲として出没する“ほこり粒”の振るまいを、「真空」という疎遠な環境の中で、独り奮闘するその“ほこり粒”の“意志”によるものだなどと本気で考えられるとは思えない。
 しかしいずれにせよ、これまで地球の科学レベルの恩恵を受けてきた私たちには、まだ生命世界の仕組みなどとうてい分からないと言うべきだろう。それについてはただ素直に、これまでの地球の科学が探求してきた方向の唯物論的世界の中に生命世界の根拠など見つかるはずがないと、言っておけば足りることだ。

 ただしこれだけは言える。
 それは、私たちの眼前の生命世界が現実のものであるなら、この世界の展開に“先立って”、このような世界を展開しようとした<意図>があったに違いないということだ。  時間の後先を問題にしているのではない。順序を問題にしているだけだ。
 それはあるいは同時であったかもしれない。ただ、無機的盲目的な偶然の物質的運動の中からこの世界が展開してくることなどありえないというだけだ。
 その<意図>は、私たちが現実世界と呼んでいるこの物理次元に自らの<意図>を実現するための構造を醸し出し、誘い出してこの宇宙を展開したであろうことは間違いない。そしてその<意図>は、私たち個々人が成長して行く方向の彼方にあるということだ。
 何時か私たちがその<意図>を了解できるだろう、というのではない。
 ただ、その<意図>が、私たちが成長して行く方向に存在していることは間違いない、というだけだ。
 私たちは、未来に向かって成長しているのではなく、自らの根拠に向かって、根源に向かって成長しているのだから。
 あるいは、そのふたつは同じことなのかもしれないが……。 (p247-252)

home】 【挨拶】 【本棚】 【映画】 【N辞書】 【R辞書】 【随想】 【仕事】 【通信】 【連絡