肉体は物理次元への<意識>の窓 大宇宙の中に、すなわち「真空」という濃密な<意識>の海に浮かんで、私たちの肉体は生かされている。 そして(肉体に自己同化した自我【エゴ】の立場からすれば)その肉体という“窓”を通して、私たちは生命である<意識>につながっている。また(その<意識>こそが自分だという立場からするなら)、その肉体の“窓”を通して、私たち<意識>は物理次元に突出し、物理次元での経験を重ねているともいえる。 現在の地球の物理学が「真空」と見なす空間の中には、さまざまのレベルの超微粒子が存在し、それが多次元の世界を構成しているらしい。 また、この「真空」を電気と磁気現象の媒質と見なせば、そこにあるのは電磁波ということになるだろうし、未来予知とか透視とかいった現象を説明するには、意識波とか念波とかいう言葉が使われるかもしれない。 電磁波の中にもさまざまな波長の電磁波が存在するように、想念波−−それは電磁波と同質のものかもしれないが−−の位相にもさまざまの多様な波動が存在するだろう。これらのさまざまな波の名称は、現時点での私たちの理解の枠組みとしての区別に過ぎず、<意識>の海そのものの中には、私たちの配慮も想像も及ばないような多次元の世界と構造が展開しているのかもしれない。 このような「真空」の海こそが“生きている”という観点に立てば、私たちが生き物と考える動物、植物、そして私たち人間の方が、この永遠の生命である「真空」の固有波動に合わせることによって“生かされている”のだと考えた方が妥当かもしれない。 肉体が酸素を呼吸し食べ物を吸収して生きているように、マインドが情報という刺激を食べて生きているように、ハートが愛を食べて生きているように、あらゆる生きものは、通常私たちが生き物とは考えない鉱物でさえも、この「真空」という<意識>の海に浮かんで、意識波動の中で生かされているのだろう。 その「真空」の海自体はけっして消滅しえないことを、私たちは「無」という言葉で表現しているのではないだろうか。 私たちが生きているその一人ひとりの生は、それぞれに固有だ。 だがそれは、私たちが一人ひとり個別の肉体の中で個別の命を生きているということではなく、むしろ「真空」という<意識>の海の特定の波動帯に焦点を合わせ、そこで<意識>と繋がることによって“生かされている”ということなのかもしれない。 それは言ってみれば、テレビのチャンネルを合わせるようなことかもしれない。 チャンネルを切り替えれば別の番組を見ることができる。 だが、テレビのチャンネルではあまりにも選択肢が少ない。テレビのチャンネルよりはむしろ、ビデオショップでのビデオの選択の方が近いかもしれない。 ある人はホラー映画に手を出し、ある人はアダルトビデオに手を出し、別の人は名作ドラマに手を出すというふうに。 あるいは、大きな本屋の棚に並ぶ本に手を出すことの方がもっと近いかもしれない。 そこには、ほとんど見渡すこともできないほどの、そしてどんなに好奇心の強い人間でも、全部を見ることなどただただ不可能といった多様な選択肢があるに違いない。 いや恐らく、私たちの場合は、人間の数だけのチャンネルがあるのだろう。 そして自分の人生の脚本を創造しながらそれを観ているに違いない。 結局は、人生の一瞬一瞬において、私たちは一人ひとりが自ら選択し決断するのだろう。あるいは決断も選択もできないと思い込む選択をするということだろう。 しかしそれでも、私たちはそこで展開される生の体験ではない。 その人生が私たちであるわけではない。それは一巻のビデオだ。 私たちはそのビデオの創造に関わりはするけれども、そのビデオの内容が私たちではない。私たちはそれを観ている者だ。 私たちは、物理次元に突出した<意識>の海そのものなのだ。 (p252-254) |