<意識>の海の四つの智慧 仏教の伝統の中に「無差別智」という教えがある。 <意識>の海に遍満している実体を、その働きの側面から言い表そうとした言葉だ。 いわば、歓喜して遊んでいる赤ん坊の全身を満たしている実体に、そのものとしての名前を付けることには意味がないので−−何しろ「意味」が届きうる世界ではないから−−その実体の“働き”に焦点を合わせて、その“働き”を描写したのだと考えればいい。 宇宙に遍満しているその実体の働きを、「無差別智」と名付けたと思ってみよう。 「無差別智」の働きを、四つの側面から描写している。 即ち、「平等性智【びょうどうしょうち】」、「大円鏡智【だいえんきょうち】」、「妙観察智【みょうかんざっち】」、「定所作智【じょうしょさち】」の四つだ。 「平等性智」とは何か。 「平等性智」とは、宇宙全体に遍ねく行き渡っているものが<生命>を証すものであること、宇宙が生命【いのち】の世界であること、つまりこれまで使ってきた言葉でいうなら、「全体」が<意識>の海だということを表現していると思えばいい。 ここで起ることはすべて生命の世界の出来事だ、ということを保証する働きを「平等性智」と名付けたのだと思ってみよう。“ここで”といっても大宇宙の外に宇宙はないから生起することはすべて、つまり森羅万象すべて生命の世界の出来事だということだ。 いわば、<意識>の海のあり方を静的に捉えた表現だ。 では、「大円鏡智」とは何か。 「大円鏡智」とは、いわばこの<意識>の海で起ることはすべて、あたかも万象が鏡に映るように、その場その場でありありと“分かる”ことを保証する働きに名前を付けたものだ。即ち、事象が現れることと、その“こころ”が分かることとの間にいかなる間隙もないこと、いかなる疑いもないことを保証する働きだ。 そこに荘厳な山があるとき、それが荘厳な山であることがありありと、何の疑いもなく、ただちに分かる働きをいっている。 “分かる”といっても、<主体>と<客体>に“分かれる”ことが必ずしも必要ではない。主客未分明の世界でも“分かる”ことは起る。 形ある形象の世界にある事象が起ることと、そのことの“こころ”が<意識>の海の中で起ることには何の間隙もない、ひとつの現象の二つの側面、つまり同じことだということだ。物理次元にある事象が起るとき、同時に<意識>の海にある内的な理解が起こっているということを保証する働きだ。 いわば、<意識>の海のあり方を動的に捉えた表現だ。 「平等性智」と「大円鏡智」の二つは、<意識>の海の「全体」としての働きをいっている。 それに対して、「妙観察智」と「定所作智」の二つは、<意識>の海が「個」において作用する働きに注目している。 では、「妙観察智」とは何か。 「妙観察智」とはいってみれば、「個」が<意識>の海の中で“焦点”を合わせることができる能力の根拠に名前を付けたものだと思えばいい。 赤ん坊の泣き声に目を醒ます母親に働いているのもこの「妙観察智」だろうし、物理次元の研究に没頭する科学者に働いているのも「妙観察智」だろう。 衆生【しゅじょう】の悲しみの声を聴いて涙を流す観世音菩薩には、まさに最大限の「妙観察智」が働いているだろう。 「妙観察智」とは、<意識>の海に浮かぶ「個」に働く、まわりの環境に対する受容器としての能力の根拠だといっていい。まわりの環境を受容する能力の根拠だといってもいい。あるいはまた逆に、それを「個」に働く、まわりの環境に放射する関心能力の根拠だといってもいい。 つまりは、愛する能力の根拠だといっても構わないだろう。 では、「定所作智」とは何か。 「定所作智」とは、<意識>の海の中の「個」の内面を、まわりの環境世界に表現できる能力の根拠に名前を付けたものだ。 波打ち際で走る子どもは、まさにその踊る内面をいっぱいに表現して走る。先生に叱られて職員室に呼び出された子どもは、まさにそのいやいやそのものを表現しながら廊下を歩いて行く。 そのように、何時であれ誰かが何かを表現しているとき、その表現している「個」に働いているのがこの「定所作智」だ。あるいは、誰かが何も表現していないとき、その表現していないその状態において表現している根拠がこれだ。 初めて生き物が殺される現場に出会った幼児は必ず泣く。 その子に、どんな説明が必要だったろう。何の説明がなくとも、その意味は見れば分かる。幼児だから判断力がないなどと思うのは、とんだ誤解もいいところだろう。見れば分かる。そのとき、その殺される生き物に働いていたのが「定所作智」だ。そのときその子に働いていたのが、そしてその生き物を殺している“分別ができた”大人にあまり働かなくなったのが、「妙観察智」だ。 私たちは、立ち上がるとき一つひとつの自分の筋肉の動かし方を意識したりはしない。ただ、立ち上がろうと思って立ち上がるだけだ。それでも私たちは間違いなく立ち上がれるし、そのときの思いのままを表現しながら立ち上がるだろう。あるいは飛び上がるように嬉しく、あるいはいやいやながら仕方なく……。そのとき働いているのが、「定所作智」だ。 そのとき私たちが“動かしている”のは、実は筋肉だけではない。その筋肉を支えるすべての内分泌系を、命令を伝えるすべての神経系を、酸素を運ぶ血流を、それらをすべて構成する細胞を、その細胞を構成する分子を、その分子を構成する原子を、その原子を構成する素粒子の動きを、それらすべてを私たちは“動かしている”のだ。 そんなものを“動かした”覚えがないことは、私たち自身がよく知っている。 そのとき、その“立ち上がろうという思い”を直ちに“立ち上がる動作”に表現する私たちに働いているのが「定所作智」だ。 外界のあらゆる物質現象を、またそれに対応する内面の心的現象を誘い、醸し出し、そして映し出しているのは、「真空」という濃密な<意識>の海だ。私たちはその<意識>の海に浮かんだ“窓”にすぎない。無論、私たちはまだそれを“自分という窓”だと思い込んではいるが……。 その<意識>の海の神秘の働きを、私たちに理解できる言葉で捉えたのが、仏教の「無差別智」、すなわち「平等性智」、「大円鏡智」、「妙観察智」、「定所作智」の「四智」の教えだ。 (p254-25)) |