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『21世紀への指導原理 OSHO』より

    “万象”と“心情”


“万象”と“心情”

 月光を浴び、希薄な空気に息を喘がせながら、やっと開けた峰まで辿り着いたとき、ほとんど漆黒とも見える遠い夜空を背景に、万年雪を戴いた壮大なヒマラヤの頂上が姿を現したとすれば、私たちはそこで何を感じるだろうか。

 その荘厳な姿が自分の眼前に現れる前にもそこにあったことを、私たちは疑いはしないだろう。けれども私たちは、その姿を目の当たりにすることによって、一瞬前とはまったく違ったある心情、情緒が自分の<意識>の中に浮かび上がっていることに気づく。
 その恐ろしいほどの荘厳さに打たれた自分を、無機的対象に対する誤った感情移入とか、恣意的な心情投影とかいったふうに解釈する道がないわけではない。
 実際私たちは近代世界に入ってから、あらゆる物質的現象に対する心情的な対応をすべて感情移入とか主観的解釈という言葉で、実体のない虚妄の幻想ででもあるかのようにみなす習慣を身につけてきた。
 そして代わりに、「労働者は労働を売って自らの生活必需品を購入する」といった類の表現だけを、真実のものとして受け入れる習慣を身につけてきた。

 けれども、身を切るような寒さが気温の上で“寒い”というだけではなく、それが身を引き締めるようなある“凛烈な”感覚を与えるとき、その感覚は寒暖計で計測できるような“寒い”という指標だけが「客観的真実」、すなわち唯一の「真実」で、“凛烈と”いうようなある種の感覚は主観的な解釈、感情移入、すなわち幻想の一種でしかないということになるのだろうか。
 ある時のある寒さが、単に“寒い”だけではなく、ある“凛烈”とでもいったような一種すがすがしく身の引き締まる感じを与えることがあるのを、私たちは知っている。
 それが情緒的ではあってもけっして幻想ではない、ある内面的「真実」と理解できる者なら、暗黒の夜空を背景に頂上に微かに雪煙をなびかせながら聳え立つヒマラヤの雄姿が、“荘厳”というしかないある種の感動の直接的表現であることが理解できるはずだ。

 万象が諸物の合成物ではなく心情の形象であると喝破したのは、ルートヴィッヒ・クラーゲスだった。クラーゲスが述べたことこそ、<意識>の海の中での「心情」と「物質」の分化の物語だった。
 クラーゲスは、私たちが“荘厳な”山を見るとき、それは私たちが眼前に展開する山に勝手に恣意的な“荘厳”という解釈を付与しているのではなく、そこに“荘厳な”山が形象しているからだという。
 荒れ狂う海が“荒々しい”のは、私たちがその海を見て“荒々しい”と解釈しているのでも類推しているのでもなく、そこに“荒々しさ”が現象しているからだというのだ。
 山が“高い”といい、笛の音が“高い”というとき、その高低を諸民族が間違えることがないのはけっして偶然ではない。そこに同じ、ある“高い”と表現されるような心情が形象しているからだ、と。

 私たちのこれまでの「真空」に即してこのことをいい直してみるなら、「形象心情」とは、次のようにも言えるかもしれない。
 真空の中である物質現象が発生するとき、ミクロの世界ではその物質発生と同時に反物質と呼ばれるものが発生している、というのが現代物理学の認めるところだという。
 とすれば、その“反物質”というものが私たちの内面がキャッチするいわゆる「情緒」とか「思い」とかいった心的内実の媒体を指す現代物理学での名称だと考えることもできる。
 すべてが生命であるこの濃密な<意識>の海の中で、一瞬一瞬、物理次元に何らかの物質現象が現れては消え、それと同時に、それを鏡に映すかのように反物質が生滅しているのだとすれば、それこそが物理次元には現象しない意識内実、心情的側面なのかもしれない。

 もしそんなふうに言えるなら、ある物質現象が顕現しているときには必ず、ある生命的な意味(=心情)が同時発生しているはずだろう。
 それが何らかの波動となって、「真空」と繋がるチャンネルを持つ者に、ある心的な内実を伝えて来るのだとも考えられる。
 暗黒の空を背景に微かに頂上に雪煙をなびかせているヒマラヤは、そのような姿で物質界に現れることによって、同時に心情の世界にも“荘厳さ”という意識内実として現象しているのかもしれない。私たち人間はその生命的意味を、あるいは五感を通して、あるいは第六感を通して感受するのではないだろうか。

 物質現象と同時に、想念の世界は絶えず変移する。
 いわゆる現象という一瞬の間も留まらない生起の姿は、けっして動くことのない一点、いわば不動の“鏡”を前提せずには現象しえない。その鏡に当たるものを、私たちは<意識>と呼んできたのだった。
 生命現象とは、物質現象と心的現象という変転極まりない一対の現象世界を乗せた永遠不動の一点によって支えられて存在しているのだった。
 そしてその永遠に動くことのない一点が、従来の物理学の言葉でいう最も純粋な意味での絶対的「真空」なのだとしたら、この大宇宙にはたったひとつの「真空」しか存在していないことも確かだろう。
 私たちが<主体>、すなわち“自分”として体験しているものこそまさに宇宙にたったひとつしかないこの純粋な「真空」であり、私たちはその「真空」に繋がることによってひとりの「個」でありえているのではないだろうか。

 走る電車の実体が、目に見える車両という構造物にはなく、むしろパンタグラフを通じて繋がっている電気現象にあるように、そしてあらゆる電車が繋がっているのがたったひとつの電気現象であるように、私たちは実在の世界にたったひとつしか存在しない「真空」という“不動”の一点に繋がることによって、<意識>する生命でありえているのではないのか。
 単に物理次元に動力を取り込むことを目的としたパンタグラフとは違って、<意識>を物理次元に実現するには、現在の地球の科学段階では想像も及ばないような精緻な工夫が必要だったに違いない。
 それが、脳下垂体、松果腺、甲状腺、胸腺、副腎腺、ライデン腺、性腺とか、七つのチャクラとかいわれるものなのではないのだろうか。 (p259-262)

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