home > 仕事 > 『21世紀への指導原理 OSHO』より > 欲の娑婆


『21世紀への指導原理 OSHO』より

    欲の娑婆


欲の娑婆

 私たちの生きている世界が、欲望の渦巻く世界であることは誰もが知っている。
 けれども、それがあまりにも当然のことであり、またそれが私たち自身の中に深く構造として入り込み前提されているために、普段私たちは自分がどれほどその欲望によって衝き動かされているかを自覚しない。だから、その欲望自体に意識の焦点を向けてみることもしない。
 何と言っても、私たちは一瞬一瞬の変転極まりないその欲望そのものを自分だと思っているからだ。

 私たち人間は地上に生まれ落ちたその瞬間から、実質的な必要を内に抱え、満たされることを求めてその歩みを開始する。
 子どもは大人たちの世界に対応する過程で、自分の「必要」を大人たちに了解可能な「欲望」に改編する道を学ぶといってもいい。
 無論私たちは、最初から自分の「必要」を「欲求」として表明することに巧みであったわけではない。私たちは言葉を覚え、時間を納得して、自らの「必要」を「欲望」として構造化し抽象化する過程で、「欲の娑婆」に組み込まれて行くのだろう。

「欲望」の主体としての執行猶予期間である子ども時代を終えると、私たちは成人して世の中に出る。
 成人するとは、ひとり前の「欲望」の使い手であることを自他共に認めるということだろう。社会人となって人々の中に立ち混じり、自分なりに自活の道を模索しながら、私たちはまわりの人たちの「欲望」の使い方を学ぶ。
 そして自分の「欲望」の表現の仕方を覚え、そのことに熟達し年齢を重ねると、何時か今度は自分がまわりの人々を動かす立場に立つ順番がきている。
 自分が世の中の仕組みを動かすという発想をする頃には、私たちは自然に、世の中を動かすとは人を動かすことであり、人を動かすとは人の「欲望」を動かすことだと分かっている。
 つまり一言でいうなら、そのとき私たちは、自分が住む世界が「欲の娑婆」であることを知っているはずだ。

“現実”と言われ、“実社会”と言われる私たち地球のこの企業社会は、その中で働いている人たちの「欲望」が動かない限り一寸も動かない。そのことをはっきり知っているのが、私たちの世界の“大人”ということだろう。
 つまり人間の世界では、変化を起動するエネルギーはすべて「欲望」というベクトルに沿って働きかけなければならないということだ。
 あるいは、物質世界を動かすものをエネルギーと呼ぶなら、人間世界を動かすときのそのエネルギー形態を「欲望」と呼ぶということだ。
 社会の進化、発展、そして個人の成長、それらはすべて「欲望」という形のエネルギーを中心にして動いていく。

 もし、地球の生命体を観察している異星人が「欲望」の何たるかをまったく知らなかったら、地上で起っていることの意味は何ひとつ分からないだろう。無論、恒星間空間を制覇したような知的生命が、そのような意識生命体観察上のキー概念を知らないはずもないだろうが……。
 そのような意識生命体観察のプロの目で見れば、ある集落の中心地の変化の様子を時間を短縮して眺められれば、簡単に地上の生命の「欲望」の変遷を捕捉することができるだろう。交通の中心地周辺の建物の変転を眺めるだけで、私たち人間の「欲望」の対象がどのように推移したかを知ることができるに違いない。
 それぞれの建物はそのときどきの人間の「欲望」を満たす何かの働きを表現していて、その背後にある時代とその社会構造が透けて見えることだろう。
 ある駅の周辺に、デパート、銀行、証券会社、映画館、パチンコ店、予備校、ホテル、商店街といったものが並んでいるなら、それら一つひとつがその時代の人間の「欲望」のトピックスを表現していることは確かだ。
 私たちの世界の企業社会のリーダーたちの仕事とは、その人間の中にうごめく「欲望」の行く手を推測し、操作し、待ち伏せる方策を考えることともいえる。

 ところで、普段あまりにも「欲望」に浸かりすぎている私たちは、逆に自分たちを衝き動かしているその時々の欲望の根拠に気づかない。
 ことによると、その時々の欲望は、実はそれぞれ別の根拠から発現しているのかもしれない。私たちの日常に現れては消えるその時々の欲望は、実はいくつかの異なるルーツを持っているのかもしれない。 (p272-275)

home】 【挨拶】 【本棚】 【映画】 【N辞書】 【R辞書】 【随想】 【仕事】 【通信】 【連絡