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『21世紀への指導原理 OSHO』より

    「欲望」はなぜ発生するか


「欲望」はなぜ発生するか

 物理次元では、「思い」がただちに眼前の事実として(物質的に)現象することはない。
「思い」がただちに眼前に展開するのは、地球上の私たちにとっては「夢」の世界しかない。
 恐らく、<意識>が物理次元を展開すること自体、<意識>が本来の全知全能を制限された幻想世界に展開しようとすることではないのだろうか。
<意識>がある種の“確実さ”の中に自らを表現しようとするのは、<意識>が<意識>の不良導体の中に自分の「思い」を展開することと同じことなのかもしれない。
<意識>が物理次元を展開しその中に突出したとき、その<意識>の「意図」と、その「意図」が実際に現象することとの間にある種の不可避的“ずれ”が生じたに違いない。
 そして、その“ずれ”を克服するために、何らかの“力”が必要だという幻想がその生命体に起ったのだろう。
 その“力”を「意志」と呼ぶなら、「意志」こそはあらゆる“力”の元型だった。

 不良導体の媒質を使って「思い」を表現してみようとする<意識>は、必然的にある種の抵抗、障害に出会わざるをえない。「意志」とは、そのような媒質の中で「思い」を貫こうとする、その方向指示器ともいえた。
 物理次元に“自分”を実現したい「意志」が現れたとき、その「意志」に対する障害は主として「時間」として感じられただろう。つまり、物理次元で「思い」を実現するためには、一定「時間」その方向を保持すること、つまり「意志」の持続が必要だった。
 この「時間」として感じられる障害に逆らって自らを貫こうとする「意志」が、<意識>の裏打ちを失って自動化したものこそ、「欲望」という「意志」の倒錯した姿ではないだろうか。
「欲望」とは、「意志」が“気づき”という真の実質を失って、いわばゾンビと化して<意識>の海の中をひとり歩きし始めたものではないのか。  物理次元の中での“思い”と“実現”のずれは「時間」を発生させたが、その「時間」は「欲望」の中で強固に実体化しただろう。

 物理次元の中で、「意志」は“気”を失って「欲望」となった。
 だが、それだけではなかった。
 あらゆる「思い」の中に「時間」という幻想が浸透する物理次元では、“気づき”を失えばあらゆる「思い」は「欲望」になるともいえる。
 そして、その「欲望」が「時間」幻想の中で倒れる敗北の形態を、“失敗”とか、究極的には「死」という言葉で表すのだろう。
 サンスクリット語では、「時間」と「死」を表す言葉は、「カル」という同じ言葉だという。
 OSHOは、「時間」の中で生きるとは、「死」の中で生きることだという。
「そして時間が消えた瞬間、死は消える」とつけ加える。

 私たちが知りうる真理が、自分が共振できる範囲の波動以外ではありえないなら、私たち地球人の知りうる真理が、大きく現在の地球の波動の世界によって制限されていることは間違いない。
 例えば、現在の地球では大多数の人間は、特別の修行でもしない限り自分の過去世を知ることなどできない。ところがときどき、自分の過去世を覚えている子どもがいて、その子が覚えていた過去世がこの世に実在していたことが確認されたりすることがある。
 OSHOは、このような事例を自然の摂理の誤りと呼んでいる。
 そしてこのような誤りによって得られた特殊な能力は、けっしてその人間に幸福をもたらすことはないと。
 私たちはどこまでも真理の智恵を深めていくことはできるが、それはあくまでも自分自身の意識波動が許す範囲内のことでしかない。その意味では、私たちが知りうる真理の範囲は私たち自身が選択しているのだろう。
 知りうる真理の範囲は、当人がどの程度「欲望」から解放されているか、どの程度「時間」幻想から解放され、“今ここ”の中に寛ろいでいるかによるに違いない。

 眠れる聖者と言われたエドガー・ケーシーは、病気治療のリーディングに関する限り一〇〇パーセントの的中率を示したが、ギャンブルの結果についてのリーディングを試みたときには、的中率は八〇パーセントを超えなかったという。
 あのような桁外れの超能力者の場合でさえ(あるいは、そうであるからこそ)、自然の摂理は固有の制限を加えたということだろう。
 それは、世界を思いのままに動かしたくて大いなる修行をした魔法使いゲドが、いったん大魔法使いになってみると、その時々に彼にとって可能なことは常にたったひとつしかなく、そこに選択の余地などほとんどなかったという、ファンタジー『ゲド戦記』の話を思い出させる。
 この物理次元の中で私たち個々の意識生命体は、無際限の宰領権をもってはいない。
 私たちが持っている無限の自由は「欲望」からの自由であり、その自由が達成されたとき、「欲望」という誤った「意志」から解放されるということだろう。

 けれどもまず、私たちは肉体である自分から出発しなければならない。 (p275-278)

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