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『21世紀への指導原理 OSHO』より

    「歓び」:ハートの欲望


 私たち人間の「欲望」は、“マインドの欲望”の位相で留まるものではないようだ。
 人間は、最後には偉大を求める動物だというわけではないらしい。
 偉大が手に入った結果であるかどうかはともかく、またそれを「欲望」と呼ぶことが適当であるかどうかはともかく、“比較”というマインド操作を一切必要としない、(しかも)一種「欲望」とも呼べる位相が存在するようだ。
 それは、あることを“発見”し、“実現”し、“創造”してゆく過程そのものの中で発現する「歓び」そのものを追求する「欲望」だ。
「歓び」は人生のさまざまな場面で現れる。
 赤ん坊に乳を含ませる母親に、海辺で波と戯れる子どもに、そして功なり名を遂げてしまった偉大な画家のただ遊ぶような筆運びの中にも。

 例えば、大芸術家が創造の過程で富も名声も手に入り、なおかつ創造を続けていくというとき、あるいは功なり名を遂げた大科学者、大発明家が、なおもその研究を続けるというとき、その創造、研究のプロセスを、富と名声の拡大欲求と考えるのは当たっていないように思われる。
 無論、そのような芸術家、科学者もいるかもしれないが、恐らくそこで発動している「欲望」の源泉は、その創造の過程で起こっている「歓び」そのものの追求と考えた方が素直ではないだろうか。

 純粋に創造過程の中に没頭している芸術家、発見過程の中に没頭している研究者は、もはや生存のための安全保障の拡大のために創造しているのでも、より一層の名声を獲得するために研究しているのでもない。
 そういうものは単なる副産物に過ぎず、彼は創造の過程そのものの中で起こっているある「歓び」、宇宙の神秘を発見することそのことの「歓び」を追求しているのだと言えるだろう。
 このような位相の「欲望」の対象を「歓び」と総称し、またその位相の「欲望」の主体を「ハート」と名付けてみることにしよう。

 つまり、欲望の階梯の三番目は“ハートの欲望”であり、“ハートの欲望”は「歓び」を求める、と。

“ハートの欲望”とは、部分意識である私たち人間が、宇宙の創造のプロセスそのものに参与することで得られる「歓び」そのものの追求だといえる。
 それは“マインドの欲望”のような間接話法ではなく、まさに「歓び」そのものを求める直接話法の「欲望」だ。
 そこでは、どんな“構造”への“参照”も必要なければ、いかなる“比較”の必要もない。その意味では、大なり小なりマインドの参加が要求される科学者の研究は“マインドの欲望”の位相でとどまることが多く、確かに“ハートの欲望”の位相には入りにくいとは言えるかもしれない。
 けれども、日本を代表する数学者のひとり岡潔さんは次のように言っている。
「よく人から数学をやって何になるのかと聞かれるが、私は春の野に咲くスミレはただスミレらしく咲いているだけでいいと思っている。咲くことがどんなによいことであろうとなかろうと、それはスミレのあずかり知らないことだ。咲いているのといないのではおのずから違うというだけのことである。私についていえば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているというだけである。そしてその喜びは『発見の喜び』にほかならない」と。

 だから、“ハートの欲望”の位相は、必ずしも芸術活動には限らず、赤ん坊におっぱいを含ませる母親の「歓び」もこれに入るだろうし、あるいは端的にある種の恍惚、快楽を求めてドラッグをやる若者が求めているものも、本来はこれだったのだと言えるかもしれない。
 そこには肉体維持のための安全度の拡大要求も、「意味」の実現に向けた“マインドの欲望”も影を落としていない。
 あるのはただ、創造の過程に自ら参入し、自らその媒体となり操り人形となって、身を打ち震わせる「歓び」だけだ。
「死」の影から逃れようとしているのではない。
 何かの「意味」を実現して、自分が生きた証しを立てようとしているのでもない。
 人がどう思おうが、そんなことを誰が気にする。創造行為、研究行為、いやその他のどんな行為でもいい、猛烈に集中し、没頭しているときに現れる快調なエンジン音を聞くような瞬間、一瞬時間が止まったようなその瞬間の中で、すべてが全開で機能しているその快感に比べたら、他のことなどもうまったくどうでもいいのだ。
 この“ハートの欲望”を最も純化すれば、それは無心に遊ぶ子どもの「歓び」になるかもしれない。もっともそうなると、それを「欲望」と呼ぶこと自体、矛盾になってしまうだろうが。

 濃密な<意識>の海の最も微細な波動域周辺の情緒ともいえるこの「歓び」を、物理次元の肉体存在が意図して“実現”することはできない。
 ましてや“奪取”や“獲得”などできるはずもない。
 できることはただ、それが“起る”のを“許し”、“受け容れ”、“享受”することだけだ。
 一瞬贈り物のように出現するその瞬間を、“受容”することができるだけだ。

 それを“受容”することを何が妨げるのかは、何度もそれを“享受”した者ならば直感的に知っている。
 物理法則を無視するかのように高く飛翔した天才ダンサーのニジンスキーは、飛ぼうと思ったときはけっして飛ぶことができなかったと証言している。
 第一の直接話法である“肉体の欲望”が安全保障という「時間」幻想の中に拡散し、深くさまよい込んで行く傾向があるのに対して、「歓び」を求めるこの第二の直接話法“ハートの欲望”は、ひたすら“今ここ”を生きることの一点に向かう。言い換えれば、「時間」の停止、「時間」幻想の終焉に向かってエネルギーを集中する。

 この“ハートの欲望”の志しは“遊ぶ”こと、“楽しむ”こと、“味わう”こと、“祝う”ことというような言葉で言い表せるだろう。
 その志しを一語で代表させるなら、“今を生きる”ことだといえるだろうか。

 恐らくどんなに強引に使ってみても、「欲望」という言葉が届きうるのは本当はこの“ハートの欲望”までだろう。 (p285-289)

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