home > 仕事 > 『21世紀への指導原理 OSHO』より > 「融解」:魂の欲望(憧れ)


『21世紀への指導原理 OSHO』より

    「融解」:魂の欲望(憧れ)


 それを「欲望」と呼べるかどうかはともかく、“ハートの欲望”の彼方に一瞬その究極の姿として垣間みられたある種の希求、憧れの位相が存在することは確かだ。
 それは言ってみれば求めることの彼方、駆り立てられることの彼方への希求、すなわち 「欲望」すること、あるいは「欲望」させられることからの超越への希求だ。
 欲望の階梯は、その究極の高みにおいて「欲望」の“不在”を希求する。
 別の言い方をするなら、「欲望」という粗い粒子を手放し、宇宙全体がシンクロニシティそのものに打ち震える「真空」の次元の“招待”だ。

「欲望」の“不在”こそが「自由」だ。
「欲望」とは、結局は「自由」への「欲望」だった。
「欲望」が求めに求めた究極は、結局は「欲望」からの「自由」、つまりは「欲望」の終焉だった。「欲望」はこの段階を経て一巡する。
 この「欲望」の位相では、快楽は苦痛と同じに見え、歓喜は絶望と同じに見え、権力は無力と同じに見え、名誉は失墜と同じに見える。
 かくして、円は完成する。無際限の全能を確認するために、制限という、不自由という幻想次元に、すなわち物理次元に突出した全能の<意識>の戯れは終わる。

 全能の<意識>の海の中で、部分意識は出発した。
「個」という幻想世界に入り、自分独自の“学び”を志し、目的地を目指して旅に出た。
「欲望」過程そのものを担ったその<主体>を、「魂」と呼ぶことにしよう。
“魂の欲望”が手に入れるものは何もない。あるいは、すべてを手に入れる。
「魂」が求める対象物は存在しない。そのために、それは「無」と呼ばれる。
「魂」が求めるものは獲得しえないもの、獲得する必要のないもの、達成しえないもの、達成する必要のないものだ。そのために、それは「空」と呼ばれる。
 またそれは常に存在した実状、現状そのものでもある。そのために、それは「如」と呼ばれる。
 またそれは「欲望」の「死」であるために、「涅槃【ニルヴァーナ】」と呼ばれる。
 それが「欲望」の対極であることを示すために、「欲望からの自由」、あるいは単に「自由」という欲望語で指し示されることもある。
 そしてそれはその働きを表して、<意識>とも呼ばれる。

「魂」が求めるものは、対象ではない。
「魂」が求めるものは、「欲望」としての自らを「解体」することだ。
 濃密な<意識>の海の中への「融解」だ。故郷への「帰還」だ。

 つまり、欲望階梯の四番目は“魂の欲望”であり、“魂の欲望”は「融解」を求める、と。

 旅は終わった。旅した虚構の<主体>は消えなければならない。
 虚構の<主体>は、本来の<主体>である濃密な<意識>の海そのものの中に消える。<主体>が消えたとき、<客体>も消える。
 もともと、存在していたのは永遠の<意識>の海でしかなかった。<主体>も<客体>も海とその波の違いにすぎなかった。
 神界も、幽界も、現界も、すべては約束ごとの中での役どころ、『ソラリスの海』の戯れにすぎなかった。

 欲望の階梯の最後の位相、“魂の欲望”の志しを一言でいうなら、それは“消える”ことだといえるだろう。

 OSHOはいう。
「あらゆる動きは、静止に至る。どこに行くというのか。人は走る。人は歩く。人は動く。どこに向っているというのか。ただどこかで休むため、どこかに腰を下ろすためにすぎない。人は、ただどこかで休むために走っているにすぎない。だから走ることは休息に至る。つまり動は静に至る」

「<生>の馬鹿らしさを見れば、予盾を通して動くその<生>のやり方、対立物を通して生きるその<生>のやり方を見れば、人は思【マイ】考【ンド】を捨てなければならなくなる」

「<生>以上に、存在以上に馬鹿げたものなど何も見つからない」

「人と会う。人と会うのはただ別れるためにすぎない。人が好きになる。好きになるのはただ嫌いになるためだ。あなたは幸せだ。幸せなのは、ただ不幸の種を蒔くためにすぎない。これ以上馬鹿げた状況を思いつけるだろうか」

「どうすればいいのか。思【マイ】考【ンド】にできることは何ひとつない。もし両極をいっしょに見たら、思【マイ】考【ンド】はただ消え失せる。そして思【マイ】考【ンド】が消えれば、<生>は不条理には見えない。そのとき、<生>はひとつの神秘になる」

「達成すべき何物もなく、達成するその者もいない。行くべき所もなく、行くその者もいない。あらゆるものが空だ。突然、努力のすべてが消える。あなたはどこへも向かっていない。あなたは笑い出す。あなたはこの空虚を楽しみ始める。そうなれば、楽しみを妨げる物など何もない。そして、あなたの上に至福が降り続ける」

「空虚が至福だというとき、それは空虚が至福に満ちているという意味だと思ってはいけない−−誤解してはいけない。“空虚が至福だ”とは、その二つの言葉が同義語であることに気づかせようとしているのだ」と。 (p292-296)

home】 【挨拶】 【本棚】 【映画】 【N辞書】 【R辞書】 【随想】 【仕事】 【通信】 【連絡