物質次元に突出した<意識>、肉体という寺院の中で踊っているのは性エネルギーという創造のエネルギーそのものだった。 そのエネルギーが肉体の維持と種の保存を「欲望」し、またマインドに汚染され行く手を妨害されて、エゴの拡大と、「意味」の実現を「欲望」させられる。そしてそれぞれの位相で、満たされなかった痛み、失望、苦悩、空しさを支える。 けれども、肉体という寺院の中で踊っているこの性エネルギーは、マインドに妨害されなければ、元々は「歓喜」するためのエネルギーだった。 「欲望」のこの四つの位相全体を通貫して流れていたのは、創造のエネルギーそのものである性エネルギーだった。 そしてこのエネルギーは、邪魔されずに流れて行くことができれば、何時か必ず海に到達する。何時か必ず、マインドの煙幕を突破し、「欲望」を超越し、“今ここ”を“祝う”ことができる。何故なら、性エネルギーとは、祝祭のエネルギー、つまり愛のエネルギーの別名に他ならないからだ。 “肉体の欲望”という「欲望」の直接話法の中で、性エネルギーは男女両性の結合を求める性愛として現れる。 この位相で肉体の結合の快感、そこでの寛ろぎ、射精による緊張の解放にとどまるなら、性エネルギーの膨大な余剰エネルギーは、いわば「欲望」の間接話法ともいえる種の保存に向けて放たれる。 そして、性エネルギーが種の保存に向けられる限り、それは同じ位相で継続する。そのこと自体、何も悪くない、何も間違ってはいない。 けれども、実はここにはある秘密が隠されている。 それは、この性愛という位相の中で、私たちは、自然が肉体の寺院に用意してくれてある途方もない鍵を発見できるということだ。性愛の中で、人は性エネルギーの氾濫を体験できる潜在能力を持っている。その途方もない解放感の中で我【エゴ】を失い、「死」を経験することができるのだ。 OSHOはいう。 「オーガズムの体験は、肉体が支えうる究極の快楽を与えるだけでなく、これがすべてではないという洞察をも与える」 一度ここで「究極の快楽=死」を経験した者が、何とかそれを自分のものにすることを願って瞑想を始めたのだ、と。 「瞑想は、深いオーガスミックな体験を持った人々によって発見された。瞑想とはオーガスミックな体験の副産物だ。瞑想を見つけるための他の方法などない。だがオーガズムは自然に人を瞑想状態に引き入れる。時間は止まり、思考は消え、エゴは存在しなくなる。人は純粋なエネルギーになる。初めて自分が肉体ではないこと、マインドではないことを理解する。自分がその両方を超越した何か−−意識エネルギーであることを」 しかし不幸なことに、まだ私たちの社会は、性エネルギーがそのような本来の道を進むことを許すほどに進化した社会ではない。 性エネルギーという膨大なエネルギーは、社会がコントロールするには大きすぎる。 性愛の中で人がそれほどの完全な自己解放に至れないように、社会は性愛そのものを非難した。非難することによって、社会は性エネルギーの中心に“やましさ”という最悪の毒を注ぎ入れた。 かくてマインドに汚染され、自らの自然な通り道を妨害された性エネルギーは、他にどうしようもなく、そのエネルギーを別のチャンネルに流した。 マインドが性エネルギーに介入し、根拠に分裂を仕込み、流れを妨害すると、今度はそのマインドの世界に性エネルギーが侵入せざるをえなくなった。 かくして、「欲望」の担い手となった「魂」の旅を導くはずの性エネルギーは、自ら散乱し、錯乱し、停滞することになった。 物質次元に現れるための<意識>の姿である人間は、男性と女性というひとつの極性の元型の両端から、両者の統合に向かって旅を続けるという約束ごとの世界に入っている。 したがって、「魂」の「融解」、エゴの「消失」、エゴからの「自由」とは、性エネルギーそのものに即して言えば、男女両性の「統合」の完成であり、その意味では、この「融解」、「消失」は、「統合」と呼ぶこともできる。 けれども性エネルギーの「統合」は、それがマインドの緊張から全面的に解放され、完全な寛ろぎ、手放しの中に安らぐのでなければ起こらない。 そのためには性エネルギーそのものを汚染しているマインドを見極め、それが解離していくことを許す“気づき”の水準、波動レベルが絶対に必要だった。 ひとことで言えば、性エネルギーが各位相において十全に自らを表現しながら、本来の寛ろぎと歓喜を味わい表現することを許され、男女両性の二つの肉体に別れた大きな約束ごとを超えて、自分の中での二つの極の「統合」を許されなければならなかった。 (p296-300) |