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『21世紀への指導原理 OSHO』より

「動物学校」の比喩


 OSHOは、「動物学校」という比喩を語る。
「ある日、森の動物たちが集まって、学校を始めることにした。集まったのはうさぎ、鳥、りす、魚、うなぎで、みんなは自分たちで教育委員会を作った。
 うさぎは、カリキュラムに駆けっこを入れるように主張した。鳥は、カリキュラムに飛ぶことを入れるように主張した。魚は、泳ぎが入らなければならないと言い、りすは絶対に垂直木登りが入るべきだと言い張った。そしてこれを全部入れてカリキュラムを作った。そして全員、みんなが全科目を履修しなければならないと強調した。
 うさぎは駆けっこではAを取っていたが、垂直木登りはまったくの難問だった。うさぎは木から落ち続け、じきに、一種の脳障害を起こして走ることもできなくなった。それまでAだった駆けっこまでCを取るようになった。そして、もちろん木登りはいつもFだった。
 鳥は飛ぶことにかけては実に素晴らしいものだったが、地面を掘るとなるとあまりうまくできなかった。鳥はくちばしを折り、翼を折り続けた。間もなく鳥は穴掘りのFだけでなく、飛ぶこともCになり、垂直木登りとなると、もう地獄の時間を過ごさなければならなかった。
 この話の教訓は、動物学校の卒業生総代に選ばれたのが全科目で中途半端な成績だった知恵遅れのうなぎだったということだ。だが、教育者たちはみんな、全員が全課目を履修したことで満足し、この教育は“全範囲教育”と呼ばれた」と。

 私たちは、この話を笑えるだろうか。
 これこそまさに、子どもたちをすべて同じ尺度で測らなければならないと考えている、現在の私たちの教育制度そのものの姿ではないか。
 なぜ順番をつけなければならないのだろう。なぜ、向き不向きを発見するだけではいけないのか。そんなことは、誰もが知っているし、誰もが言う。誰もが、そんなことは知っていると思う。
 が、けっしてそうではない。「比較」は私たちの中にあるのだから。

 中学校の図工の時間に、色彩の性質について教わったことがある。
 色彩は、色相、明度、彩度という三つの基本軸に沿って展開するひとつの質的な世界であり、各色彩はこの三つの軸で捉えることができる、というのだった。
 色相とは、赤、青、黄のように色の世界の多様性そのもののことだった。色相には、それぞれ相互に関連し合った固有の性格があるらしくはあったが、個々の色相自体に上下関係があるはずもないことは、子どもながらに良く分かった。それに比べ、明度、彩度の方は、何やら階層として並べることができるような感じもあったが、それはそういう固有の位置だといえば、また確かにそうらしくもあった。

 質的なものの「比較」とは、この色の「比較」のようなことだろう。
 確かに、ある意味では“比べる”ことはできる。暖色系は暖かい感じがするのに比べ、寒色系は寒いような感じがするというふうに。
 だが、それは相互に支え合う関係ではあっても、例えば、暖かい感じが望ましいから色は暖色系だけがあればいいとか、さらには、赤が好きだから、色は赤だけがあればいい、などという世界でないことだけは、中学生の自分にも確かに分かった。
 そうだとすれば、実際は、明度についても、彩度についても同じことがいえるはずだった。明るい方がいいからと言って、一番明度の高い色があればいいわけではなかった。一番鮮やかな色があればいいわけでもなかった。
 それぞれの色が全体で色彩世界を支え合っていることは自明だった。 (p323-325)


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