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『21世紀への指導原理 OSHO』より

「比較」は制度の問題ではない


 質的なものの「比較」がまったく不可能だというわけではない。ある意味での「比較」は可能だろう。けれどもその「比較」が、「青」が「赤」になることを促すような「比較」だったら、あるいは、「青」は同時に「赤」でもなければならないというような「比較」だったら、それは狂気の沙汰としかいえないだろう。

 確かに、子どもたちが学ぶべき最小限度の共通課題というものは存在するだろう。
 だが、それは子どもたちが学ぶ上で苦痛を感じるようなものであるべきではない。
 また同じ内容も、「比較」も序列も必要ないまったく別の観点から教育されるなら、子どもたちは現在とはまったく別の反応を示すかもしれない。
 いや、これは仮定の問題ではなく、現在世界中で行われているさまざまの実験的試みの中で、明らかになっていることだ。
 教育現場を荒廃させる唯一最大の要因こそ、この「比較」という大きな<ソフト>だ。そして、それが私たちの内なる焦燥、恐怖、内圧、認識を形成し、社会のあらゆる側面にわたる「競争」を促し、その競争場裡で生み出される焦燥が、巡りめぐって子どもたちの「比較」を支えるという悪循環を生み出している。

 だが、この「比較」を、単なる制度の問題と思ってはならない。
 これは、その制度を成立させている<ソフト>の、私たちが自分の内部に育んでいる<ソフト>の問題なのだから。
 この「比較」という大きな<ソフト>を卒業することは、人類が、過去のすべての人類史から自分を切り離すことを意味する。
 私たちは今、大いなる想像力を持たなければならないのかもしれない。
 地上での現在の私たちが、「比較」と、そこから派生する「競争」、そしてそこから経験的に演繹された「市場原理」というものを超えることを想像するのはいかにも難しい。そして、私たちの子どもたちがそれを超えて行くことを想像するのも難しい。

 だが、こんなふうに想像することならできるのではないだろうか。
 つまり、私たちの世界に生まれてくる子どもたちが、もし「比較」も「競争」もまったくない世界に生まれたとしたら、その世界に適応するのに現在以上の困難を感じるはずはないだろう、と。
 きっと子どもたちは、私たちの世界に適応するときに感じた程度の違和感と困難すら感じずに、ごく当然のその世界のあり方に、何の無理もなく同化して行くのではないだろうか。現在私たちの世界に生まれてくる子どもたちを想定しても、子どもたちはそういう世界をこそ自然な世界、人間が住む世界の当然のあり方として受け入れ、自ら喜々としてその世界に同化して行くように思われる。

 ということは、現在の地球上の「比較」と「競争」を前提としたいわゆる“文化”を超え難く必然的なものとしているのは、私たち、すなわち現在の人類である私たちに内在する条件づけ以外にはないということだ。
 なぜ私たちは、かくまでも「比較」と「競争」を必然的な前提としなければならないと思い込んでいるのだろうか。 (p325-327)


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