旧共産主義諸国が崩壊した現在ほど、自由市場の価値が疑われていない時はないかもしれない。 なかでも自由市場の存在根拠である「競争」への信頼は絶対ともいえる。 私たちは、先進国の物質的豊かさは「競争原理」が働くことによって達成されたのだと確信している。「競争原理」こそ、私たち人間が拠って立つことができる安定した法則だ、と。この法則が物理法則のように安定しているために、自然科学の物理学と同じような意味で、人文科学の経済学があるのだと私たちは思っているようだ。 けれども、豊かさは本当に「競争原理」が働くことで実現しているのだろうか。 ここには、いくつかの前提が整理されずに入り混ざっているようだ。 第一には、物質的な“豊かさ”というものが、人間の幸福の必要充分条件でもあるかのように無条件に前提されていること。 第二には、人間の幸福というものが、商品の属性から類推されるような比較可能なものだと発想されていること。 第三には、人間は生きる喜び、創造の喜びによって創造し働くのではなく、死の不安から逃れるために働くものだという前提だ。 こういう前提が未整理のまま混乱した心理的圧迫となって、この世のさまざまな「競争」を不可避的な必然のように思わせている。 そして、その未整理な前提の中心には、幸福を「比較」によって疑似的に達成させるべく、ある種の“眠り”に引きずり込むような下向きの力が働いているように思われるのだが……。 そして、その幸福の疑似的達成という“夢”を支えているのが、内面が「比較」可能なものだという誤解だ。内面という“質的現象”を、外界に存在する物質の“量的現象”と同じ、比較可能なものと思わせる途方もない呪縛だ。 私たちは、“質的な”ものの「比較」は、“量的な”ものの「比較」とはまったく別の事態であることを理解しなければならない。 実は、“質”とは比較不可能なもののことだからだ。 だから、“質的”なものの「比較」が可能であるかのように思わせるために、ある種の“操作”が密かに行われることになる。 この“質的”なものの「比較」が可能であるという根本的な誤解が解体すれば、競争社会は根幹となる基盤を失い、徐々に解体して行かざるをえない。そして、「競争」そのものが“夢”の世界でしか成り立たない虚構のゲームだったことが、誰の目にも明らかになるだろう。 例えば、百メートルを一五秒で走る人と、百メートルを一〇秒で走る人の内面に何か比較可能なものがあるだろうか。百メートルを一〇秒で走る人の内面には、一五秒で走る人の内面を凌駕する圧倒的な幸福が存在するだろうか。 子どもが嬉しさのあまり飛び回って走っているとき、ひとりの子が秒速三メートルで走ろうが、秒速二メートルでスキップしようが、その子たちの内面の幸福をその走る速さで測れると思う者はいない。百メールを一〇秒で走れる者の内面が、一五秒で走る者の内面より圧倒的に幸せであるはずがない。 オリンピック競技が生まれて世界に報道され、そのことに経済的価値まで付与される以前に、自分が走る速さが百メートルを何秒で駆け抜けるかを意識した者などいるはずがない。それは確かだ。 ということは、そこで比較されているのは、駆け抜ける速さの中に内在する幸福ではなく、「比較」の結果算出される抽象的な“何か”だということだろう。 私たちは自分自身の実際の内面の幸福に鈍感になればなるほど、抽象的な虚構のその“何か”に価値の根拠を求めようとしたのだろう。 二万円が一万円の倍であるのは確かだ。 けれども二万円持っている人が一万円持っている人の倍の幸福を味わっているかどうかは、けっして自明のことではない。 確かに、百億円の資産は十億円の資産の十倍もの「価値」があるのかもしれないが、百億円の資産家が十億円の資産家の十倍の幸福を約束されているわけでないらしいことは、それだけの資産を持ったことのない人間にも見当はつく。 そういうものはすべて、抽象的な虚構の価値にすぎない。 けれどもその虚構の価値は、同じ虚構の“夢”を見ている者たちによってある種の実質を与えられ、それなりの「比較」を可能にする。そのような「比較」には全部一様に、ある特定の色合いがある。 それはエゴによって支えらた抽象的価値である“何か”だ。 (p327-330) |