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『21世紀への指導原理 OSHO』より

■「比較」の根拠とは何か


 そのエゴによって支えらた抽象的価値とは何か。
 何を根拠に、私たちは内面を比較するのか。何を根拠にして、内面の「比較」が当然可能だと私たちは思っているのか。
「比較」が可能であるためには、その「比較」の対象は測定可能な何かの量に換算されなくてはならないだろう。
 端的に「比較」できるのは目に見える物質的存在しかない。
 とすれば、人間の内面を「比較」するには、それを何らかの意味での目に見える物質的な量に置き換えなければならないはずだ。

 三個の林檎が二個の林檎より多いことは確かだ。それを疑う必要はない。
 けれども、三個のりんごを持つ者が二個の林檎を持つ者より幸福であると判断されるとしたら、そこには大きな前提が差し挟まれていることになる。
 それは、人間の内面は、その人の(何らかの意味での)持ち物によって計測できるという前提だ。これはかなり疑問のある大胆な前提だが、もしそういう前提が許されるとしたら、確かに人間の内面も「比較」できるのかもしれない。

 持ち物がりんごなら個数で勘定できるが、走る速さとなれば記録に置き換えなければならない。
 では、りんごの場合は明らかに一個より二個の方が価値が高いと考えられるのに、百メートル走の記録の方は、なぜ二十秒より十秒の方が価値が高いと考えられるのか。無論、りんごの場合は個数の多い方が、百メートル走の記録の場合は、速度の速い方が価値が高いと考えられているわけだ。
 では、駄目押しにもう一歩。りんごの数はなぜ多い方が、走る速さはなぜ速い方が価値が高いのか。

 何故だろう。その根拠は何なのか。
 それらの目に見える量は、何かの根拠を媒介にして、その人の内面の状態を表す指標としての役割を担わせられている。
「比較」可能な外在的な量を、人間の内面と繋【つな】ぐその根拠とは何か。
 その外在的な量のどちらの極性が積極的な価値であり、どちらが消極的な価値であるかの判断に私たちが迷わないのは何故か。その判断の根拠とは何か。
 恐らく、私たちは無意識の内に“死の不安”を媒介として、それを間接的根拠として「比較」が可能だと思っているのではないだろうか。
 私たちは「死」からの距離を測っていたのだ。
 私たちがオリンピックで、百メートルを九秒台で走破した者を、十秒台で走った者より優者とするのは、彼の方が「死」を免れる度合いが高いと考えているからではないだろうか。

 無論、実際の「比較」で、私たちがそんなことを意識するわけではない。
「比較」は無意識の中に深く入り込んだ大きな<ソフト>になっており、通常私たちは「比較」の根拠を意識したりはしない。私たちはただ、当然のこととして「比較」するだけだ。
 だが、煎じ詰めれば「比較」とは、“死の不安”を天秤ばかりの支点に据え、人間の内面をその不安からの距離(=安全度)として推測することだったのだ。その安全度はさまざまな方向性を持ち、その方向はさまざまな尺度で測られるだろう。すなわち、物質的富、能力、権力、名誉、権威、等々というように。だが、これらの尺度はもともと、人間の内面の幸福を測る尺度を意図したものではなかったし、内面を測る尺度などあるはずもなかった。

 ゴッホの生存中に、その絵が表す彼の内面を計測しえた者はいないが、彼が死んでその絵の世間的評価が定まってからは、その絵を億の金で評価(計測)する者は跡を絶たない。そこで評価されているのが、その絵を描いたゴッホの内面ではなく、その絵の世間的財産価値であることは誰もが知っている。
 絵を描いていたゴッホの内面は、その絵の世間相場が無に等しかったときも、億の金で評価されるときも、いかなる計測(比較)をも拒む固有の世界として、固有の幸福と不幸をたたえて聳え立っていたのだ。
「比較」とは恐らく、物理次元に固有な“死の恐怖”を根拠に成立していた。それはもともと、太古の時代から引きずってきた“死の恐怖”の影の中でしか成立しない“後ろ向きの<ソフト>”の残り滓【かす】だったのだ。自らの苦闘によって生きていると信じている世界でしか意味を持ちえない幼い<ソフト>だった。もともと“生かされている”ことを知っている新しい世界に存在できるようなものではなかったのだ。

 ところが、私たちはその時代遅れの根拠を基に、途方もない不幸を生み出した。私たちは「比較」という病んだ<ソフト>で自らを縛った。
 私たちは、ただ理由もなく幸せだった自分の子どもたちを、ひたすら他の子どもたちとの「比較」によって不幸になるように条件づけを開始する。
 私たちのかけがえのない生の一瞬一瞬は、絶え間ない「比較」によって汚染された。
 その結果私たちは、無用な惨めさと、最後には自分を切る刃物となる無用な優越感で身をさいなむことになった。私たちは劣等感と、優越感に引き裂かれ、人の不幸によって喜び、自分の幸福を無意識のやましさに変換する病的なエゴを形成することになった。
 実際の自分の内面より、他者との「比較」という外側の根拠に幸福の証しを求めた。
 自分が幸福になるために他者との「比較」を、言い換えれば、他者の相対的な不幸を必要とするようになっていたのだ。 (p330-333)


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