例えば、ここにひとりの優秀な企業戦士がいて、その企業内での彼の部署の利潤の最大化のためにまっしぐらに戦ったとしよう。 彼の論理は企業の論理そのものとなり、彼の思考は状況に応じて的確に利得を計算してあやまたず、どこまでも冷静に自らが担当する部署の利益の最大化を願って無機的なまでの冷静な判断を下し続け、出世した。そしてあるところで、例えば過労死によって生の終わりを迎えたとしよう。 彼は“成功”を目指し、“失敗”を避けようとしたのだった。 さてところで、彼が一身を挺して実現した価値は、実はほんの二、三十年ほど後にはひとつの小さなコンピュータ・ソフトウェアが実現できる程度のものだったかもしれない。そしてたった一度だけ取った休暇で、彼が一瞬腑抜けのように眺めた空だけは、何万年の後にもどんなコンピュータにも支ええないある内面だったかもしれないのだ。 「競争原理」とは、また何と、闘いそのものが日々の生活であった世界を暗示していることだろう。生きるために、競争相手を打倒することがどうしても必要だった時代の名残なのだろう。 けれども、ダーウィンの自然淘汰論がきわめて主観的な“時代の理論”だったことが明らかになってきているように、今西錦司の「棲み分け理論」が大きく見直されてきているように、闘いそのものさえも“時代の<ソフト>”として卒業されて行くのかもしれない。それはその時代を覆う恐怖の深さ、“夢”の深さを思わせこそすれ、生きる手段として必須のものではなかったのかもしれない。 “成功”も“失敗”も、「死」によって区切られた「時間」の中でしか意味を持ちえない“夢”にすぎない。 その“夢”の中では、自分の“成功”の達成には相対的な他者の“失敗”が必要であるように思われ、他者の“成功”は自分の“成功”を妨害するように見える。 この“成功”と“失敗”の排除律は、もともと狩の対象が同一の標的になってしまった場合の「競争」から連想されているのだろう。 そして複数の勝者を許さない「競争」概念は、同一空間を複数の“物”が占拠できない「剛体」概念と同根の、時代の産物なのかもしれない。 自分の“成功”のために他者の“失敗”が必要であると潜在意識が信じていれば、その他者の潜在意識も同じことを信じているのだから、その“成功”が自然に実現することはありえない。そんな想念世界の中でもし“成功”が達成されたら、それは他者の羨望と嫉妬を根拠にしてしか可能ではないだろう。 “成功”とは、もともと自分の中に実存として内在する幸福ではなく、他者の想念の中に確証を見いだす、“夢”の弁証法のようなものなのかもしれない。 幸福とは、自分の内面の在り方に他ならない。 それは内的なゲシュタルト、内面の調和の問題でしかありえない。 他者に保証してもらうことなど、必要でもなければ可能でもない。大きさの決まっているパイの奪い合いではないのだ。 “成功”も“失敗”も、そして「競争」そのものが“夢”にすぎない。 「競争原理」を信じて、その場の“自分”の物質的利得の最大化を追求することは、自明な幸福を保証しているように見えても、実はその時の状況という全体の中でのバランスの中に、一瞬存在するように見える“利得”という名の“夢”に過ぎない。 もともと幸福とは、他者から奪うことができるような“物”ではない。それは、自分の在り方が全体に受け容れられているという確信に他ならない。 そしてそれなら、「競争原理」の奴隷になどならなくても、落ち着いて<意識>として状況に対応し、当たり前の合理的な判断を下せば済むことなのだ。 何も、「競争原理」などという言葉の呪縛にかかることはない。 では、「競争原理」という“原理”が、物理法則のように存在すると信じた場合に起こることとは何か。 多分そこで起こることは、一人ひとりの個人が<意識>として状況に対応する責任の回避ではないだろうか。自分を「競争原理」で縛られた存在とイメージすれば、生の内実は「競争」ゲームの歯車の一齣【こま】となり、<意識>として状況に対応する責任はなくなるからだ。 一瞬一瞬の生はそれ自体として生きられず、ひたすら未来の一点の目標に向けての手段と化すことだろう。その目標が達成できなかったら、そのための手段として捧げた<生>がすべて“無駄”であり“失敗”であったというように。 私たちは、リアルな<生>である「今、ここ」を“未来”という幻のための手段として捧げることだろう。 そのように私たちは、“成功”と“失敗”が存在する人生を生きてきたのだった。 (p336-339) |