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『21世紀への指導原理 OSHO』より

■「競争原理」とは「原理」なのか


「物質的豊かさは自由市場を通じて成立し、その自由市場は“競争”を通じて成立している」といわれる。
 これは「競争原理」と呼ばれ、まるで自然科学の法則のように人間社会を“支配している”のだという。
 だが、この極めて正当に見える使い古された表現も、事実の端的な描写ではなく、ある解釈による間接的な表現であることも確かだ。この表現が言いたいのは、物質的豊かさは「競争」を前提にした自由市場がなければ成立しないということだろう。
 その場合、「競争」のないところには統制経済しか存在しえない、という暗黙の理解が前提されていることはいうまでもない。すなわち、「競争」のないところに、自由な主体が自らの動機によって参加する活気ある経済活動は存在しえない、と。
 けれども、ここにはいくつかの暗黙の前提が混在している。
 少し整理が必要だ。

 先ず、物質的富が人間の幸福とどう関係するかはけっして自明ではないが、とりあえず、物質的豊かさは望ましいものだとしよう。生存も脅かされるような状態が、人間にとって望ましくないことは確かなのだから。
 次に、「物質的豊かさは自由市場を通じて成立する」という断定だ。
 ここでは、物質的豊かさを保障するものを「自由市場」と呼んでいる。その「自由市場」の意味を明かしているのが、「自由市場は“競争”を通じて成立している」という表現だ。
「自由市場」という概念には、二つの前提があるらしい。
 すなわち――
 第一は、「自由市場は、市場参加者の自らの動機づけによる“合理的な”経済活動によって成立している」という前提だ。
 第二は、「市場参加者の自らの動機づけによる“合理的な”経済活動とは、参加者個人の利益の最大化、すなわち“部分最適化原理”に基づく利益の最大化である」という前提だ。

 ここで“合理的な”とは、「普遍的な」とか「安定的な」とか「後で悔いが残らない」というような意味だと思えばいいだろう。
 言い換えれば、現段階の人間の欲望によって保障されているという意味だ。
 また“部分最適化原理”という言葉で、「個人、家族、企業、国家というような枠が現実に存在しているように、“全体”の中には“部分”というものがあり、“全体”の命運とは別に、その“部分”だけの利益というものが存在し、その“部分”の利益を最大化するのが、その“部分”にとっては最も合理的な選択だ」とする原理を意味するものとしよう。

 この内、第一の前提は、個々人の自発的、合理的動機が最も普遍的な安定した行動規範であることを表明していて、「欲望」の存在を前提せずには実質的には何も考えられない物理次元では、正しいとしなければならないだろう。
 問題があるとすれば、それはもっぱら第二の前提だ。
 つまり、“部分最適化原理”だけが無条件に常に“合理的”だと前提していいかどうかだ。
 何が“合理的”であるかは人間の理解の成長、すなわち「欲望」の成熟によって変化する可能性があるのではないだろうか。必ずしも一意的には固定できないだろう。
 通常意識されることのないこの第二の前提の“部分最適化原理”は、永久不変の“合理的”動機ではないかもしれない。

 例えば、現在の地上の経済社会では、証券市場での投機家たちの行動が“合理的”経済行動であることは一般に疑われていない。それが“合理的”と見なされるのは、現在の経済世界ではそれが「狂っていない」、「本人の利益になる行動」と承認されているからに他ならない。
 けれども、投機行動が“合理的”であるのは、実はそれが利益をもたらすと、少なくもその可能性があると見なされる場合に限ることは間違いない。
 その投機行動が明らかに本人に利益をもたらさないことが前もって分かっているなら、まさかその行動を“合理的”と見なす者はいないはずだ。
 個々の行動が“合理的”経済行動と見なされるかどうかは、その行動のもたらす結果についての見通しによって変化する。
 だから、その見通しが異なる個人の間では、同一の行動が、ある者には“合理的”経済行動とみなされ、別の者からは“合理的”経済行動とは見なされない場合もある。

 例えば、賭博はある個人にとっては立派な経済行動であっても、別な個人にとっては“合理的”経済行動とは見なしえないものだ。
 また詐欺、強請【ゆすり】のたぐいを“合理的”経済行動と見なす者は、逆に社会によって犯罪者と見なされることになっている(もっとも、その規模が大きくなれば一概にそうとも言えないが)。
 そして、ひたすらに自己増殖を遂げる癌細胞の行動を、癌細胞の立場に立って“合理的”と見なしうるかどうかは、なかなか判断し難い。
「赤信号、みんなで渡れば恐くない」という言葉がある。
 群衆心理の中で“部分最適化”に狂奔する人間の行動は、むろんその立場に立ってみれば“合理的”でないことはない。
 けれども、その赤信号に向かってトラックがスピードを緩めずに走って来ているのが見えている者がいたら、その人間の目からすれば、みんなの後についてその赤信号を今渡ろうとしているその行動は、けっして“合理的”には見えないはずだ。 (p339-342)


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