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『21世紀への指導原理 OSHO』より

■“合理的”判断とは何か


 何を“合理的”と見るかは、状況全体の理解によって変わってしまう。
 自分の生存環境そのものを破壊する癌細胞の行動を“合理的”と見なさない見地に立つなら、地球の息の根を止めるような経済行動が“合理的”であるかどうかは考えるまでもない。
 まして、従来“合理的”と見なされてきた行動の累積結果が、今地球を瀕死の状況に追い込んでいることが分かった以上、従来の観点から“合理的”と見なされるような行動が脱出路を開きうるはずがない、と考える方がむしろ“合理的”だろう。
 ナイアガラの滝壷に近づきつつある巨大客船の中で、前途の光景をはっきりと見た者の行動は、それが見えていない人たちの観点からするならけっして“合理的”ではありえない。そして、それが見えていない客たちの目に“合理的”と映るような行動が、その船を取り巻く現状に対応するという意味での“合理的”行動でないことも確かだ。

 猛り立ったバッファローの大群がもうもうたる砂煙を上げて、まっしぐらに海に向かっているとしよう。
 その大群の行動をヘリコプターで上空から眺めている者があれば、無論その人間の目には、バッファローが採っている進路が自滅的なものであることは明らかだ。そして、彼は密かに「奴らは狂っている……」と呟くかもしれない。
 けれども、もうもうたる砂煙の中で親しい仲間たちに取り囲まれて必死に走っている個々のバッファローにしてみれば、“合理的”行動はそれしかないだろうし、その方向から逸【そ】れるという“狂気”の可能性すら存在しないだろう。
 だが、目前に青い海が広がるのを見た先頭のバッファローはどうだろうか。
 一瞬、彼の頭の中には自分の進路に対する不安がよぎるだろうか。
 その時彼は、真っ直ぐ海に突っ込む現在の進路を変えることができるだろうか。
 どうにも後戻りできずに今海に突っ込み、その冷たさに身を浸し始めたバッファローは何を感じるだろうか。
 何とか尻込みしようとする彼の上に、次々と後続のバッファローの大群が押し寄せてくることだろう。
 全身を海に浸し、遠のいて行く意識の中で、どんどん自分の上に積み重なってくる仲間たちの体重を感じている彼は、何を感じるだろうか。

 だが、私たちはバッファローではない。
 私たち人間は、すべての行動を本能によって決定されている存在ではなく、一人ひとりが自我【エゴ】という枠組みの中で意識し、感じ、判断して、“合理的”な行動を採るべき能力を与えられている存在だ。
 この途方もない権能は、私たちに後悔する能力までも保証している。
 どんな行動が“合理的”であると考えるかは、その行動によってもたらされる結果についての見通しによって変化する。
 逆に言えば、見通しと理解を変えることができれば、“合理的”行動の枠組みを変化させることができるということだ。
 見通しの枠組みを変更できれば、その理解に応じて「欲望」は変化し、その変化した「欲望」に応じて新しい枠組みは“合理的”なものとなり、普遍的なものとなり、安定したものとなりうるだろう。
 その新しい枠組みは、若気の過ちでもなければ、一時の気の迷いでもなく、しっかりした根拠に立った“利益”を求めての“合理的”行動となり、たとえ個々の選択では誤ることがあっても、その枠組み自体は間違っていない妥当なものとして受け入れることができるはずだ。

 その意味で、今見直されなければならないのは“部分最適化”の原理そのものだといえる。
 なぜそういえるか。
 なぜなら、現在地上を覆っている大きな問題はすべて、人間は「競争」による「自由市場」を通じてしか豊かな社会を実現しえない、とする前提が構造的、必然的にもたらした問題だからだ。
 そしてまた、たとえどんなに、人間は狭義の経済合理性という動機づけによってしか動きえない存在だと自己規定しようしてみても、本来の能力を自縛したそんな“夢”の中では人間はけっして幸福になることはできないからだ。
 もし本来それだけの存在だったのなら、人間はこれほど不幸にはならなかっただろう。それほど不幸になれる能力を持っていないはずだ。

 今人類の前に姿を現してきた問題はすべて、従来の地上の“経済”、“政治”といった枠組みではどうにも解決しようのない問題なのだ。
 それは、いってみれば、従来の地上の人間のそんな“合理性”を壊すために現れてきているのだから……。 (p343-345)


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