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『21世紀への指導原理 OSHO』より

■私たちの“気づき”のレベル


 地球の自然環境破壊、人口爆発、食糧危機、エネルギー問題、これらの代表的な大問題はすべて、現時点の地球人類が手にしうるハードウェア上の限界によって引き起こされた問題ではない。
 それらはすべて、大なり小なり、現在の地球人類の<ソフト>によってもたらされた問題であり、現段階の地球人類の無意識が“意図的”にもたらした人災ともいえる。
 これらの問題はすべて、最も合理的な富の再分配を実現するはずの「市場原理」に基づいた欧米先進工業諸国(無論その中に日本も入るわけだが)が、その“原理”を低開発国に押し付けることによって、構造的、必然的に地上に出現させたものだ。
 その地上での発症形態は大ざっぱに南北問題と呼ばれ、その究極の姿が第三世界の貧困なのだろう。

 第三世界はけっして偶発的に地上に発生したものではない。
 第三世界も環境汚染の問題も、現在の地上人類の意識段階が見ることを拒否した現実に対して、地球という全環境が有機的に応答した結果の現れに他ならない。
 人体の一部の疾患を無視すれば、滅びるのは人体そのものであるように、南北問題という構造問題を無視すれば、滅びるのは現段階の人類以外にあるはずもない。疾患は無論、いちばん弱いところから発症する。そのいちばん弱いところを無視し、切り捨てれば、切り捨てられるのは自分以外の何者でもないだろう。
 ただ肉体の疾患であればそれは一目瞭然だが、地球人類の疾患となれば、それを見るには醒めた意識の目が必要だというにすぎない。
 現在第三世界に現れている慢性的飢餓と呼ばれる状態も、もしそれが地上の権力者たちが“意図的に”創出している状態でないのなら、解消するのに何ほどの時間もかからないだろう。
 例えば、世界を牛耳っている農業関連産業の指導者たちの知識をもってすれば、そしてもしその人たちがその飢餓に襲われている家族の一員としての立場で発想することができたら、そんなものは一瞬の内に雲散霧消する問題にすぎないだろう。
 だが、それが可能だろうか。
 不可能とは言えないだろうが、難しい。
 私たちは“現実”にしか対応できない。
 自分が“現実”と見なすものにしか対応できない。
 何を“現実”と見なすかは個々人の気づきの程度、私たちがどれだけ“夢”から醒めているか、どれだけ愚かな「欲望」から開放されているかによるしかない。

 たとえどれほど立派な御殿に住んでいたとしても、年に一度の祭日には、父親がお祭りのご馳走に子どものひとりを食べることにしているという家を、私たちは豊かな家庭とは思わない。
 その家の日常を支配している空気、波動の質を想像せざるをえないからだ。
 これは、現在の地球上でほぼ万人が承認する“気づき”のレベルだ。

 海外旅行である国を訪れ、その国全般に広がる腐臭に満ちた極端な貧困と、その貧困に取り巻かれて存在しているほんの一握りの富裕階級の存在を見た場合は、私たちの見方はそれほど一致しないかもしれない。
 私たちのある者は、そこに愚かさと貧困しか見ないかもしれないし、ある者はそれを仕方のない、いわば当然のことと思うかもしれない。またある者はその一部の富裕階級の中に豊かさを見、彼らに近づこうとさえするかもしれない。

 そして、飽食ゆえの病いが世の中を覆っているいわゆる“先進”工業諸国と、慢性的飢餓に苦しむ第三世界が同時に存在しているような世界、また食肉用として家畜という生きた仲間たちを飼う習慣を持った現在の地球に目を向けた場合はどうだろうか。
 私たちの大部分はそれを当然のこととして、そこにいる自分たちを、特に愚かとも貧困とも思わないに違いない。

 ところで、飽食の上にもなお生き馬の目を抜くような“賢さ”で、一層の利益と“豊かさ”を求めて「競争」を続けるという場合、それははたして、生存のための努力といえるものだろうか。むしろそこに認めるべきは、“豊かさ”の確証に相対的な貧困を必要とするような、いわば「病い」ではないのか。
「比較」という内部に飼われた誤った<ソフト>は、私たちを幸福に向けて誘うのではなく、むしろ無意識に他者の不幸を望んでしまう逆転のギヤとして機能している。
 恐らく事実は、<意識>としてリアルな世界に対応することを回避した私たちは、飽食しながらもなお必死で、死の恐怖から逃げているだけかもしれないが……。 (p346-348)


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