二〇世紀までの人類史は、アイデンティティ確立のための歴史だったともいえるかもしれない。 『権力への意志』といわれるのも、あるいは認知を求めての闘いといわれるのも、「欲望」の成長によって、自分の構想する「意味」の世界の中で、自分が生まれてきたことのアイデンティティを確立しようとする闘いだった。 自ら構想する「意味」の世界である限り、それはマインドが構築する世界であり、つまりは参照と比較、抽象と捨象を介して構成される世界だった。 その中で人は自分にとって好ましい「意味」を確立することを願った。 その「意味」は他者に対する権力であることもあり、深淵なる思想であることもあり、壮大美麗な芸術であることもあったが、それは自分ひとりのマインドによって支えられのではあまりにも弱々しく、必然的に他者からの認知を要求するものでもあった。 無論、誰もがこのような壮大な夢を実現し、偉大なアイデンティティを確立できるはずもなかったから、人々は何らかのささやかな区別を立てることによって、自分のアイデンティティを構成しようとした。 自分が生まれた家、自分が生まれた村、自分が生まれた国、自分が属する宗教、自分が属する民族、また自分の肉体、自分の作品、自分のセンス、自分のキャリア、自分の能力、自分固有の感情、自分の幸福、自分の不幸、自分の執念、果ては、過去世のカルマ、自分がやってきたと考えられる方向の宇宙の中の星系までも持ち出して、自分のアイデンティティを確立しようとした。 私たちは今も、芸術活動からファッション、政治活動から暴力行為に及ぶまで、実にさまざまな分野における実にさまざまな角度で自分のアイデンティティを確立する道を求めている。 けれども、アイデンティティの確立には最終的に他人の“認知”が必要である以上、結局は何らかの「比較」を媒介とし、いつか大なり小なり微妙な「競争」を喚起せずにはいない。誰かが偉大なアイデンティティを確立すれば、そのアイデンティティを認知するまわりの者たちは、何らかの嫉妬に似た感情を味う必要があったに違いない。何しろ、アイデンティティの確立とは、私はお前とは違うということの立証なのだから。 私たちはエゴを通して“成長”しなければならない。それは、確かだ。 それは、何度も何度も戻ってこなければならない、出発点だ。 私たちは、“自分”という固有の経緯と状況を通じて成長しなければならない。 自分一身のために、自分の家族のために、自分の会社のために、自分が属する民族、自分が属する国家、自分が属する何かのためでなければ、私たちは持てる本当の力を発揮することはできなかった。 少なくとも、これまではそうだった。 そして、肉体の維持という根本的恐怖、またそれから逃れるための安全保障の追求が、家族や私有財産を、ひいては国家を生み出してきたのだった。 この流れを逆転する道はあるのだろうか。 なければならない。もう地球はそんなに待てないだろう。 では、どんな道がありうるというのか。 そんなふうに言えるなら、それは、みんなが同じ<自分>を生きているのだという、すべてが<自分>だという単純な事実に気がつくという道だろう。 この単純素朴な事実を私たちに納得させるために、地球は生死の境を歩まなければならないのだろう。そして、いったん、この単純な事実を誰かが納得すれば、その人からアイデンティティ確立のための努力は蒸発して消えて行くのだろう。 生命世界に実際に存在しているのは<意識>につながった「個」だけであり、いかなる集団も、いかなる境界線も虚構のものでしかなく、実際には(つまり実在の世界には)存在しないものであることを理解できればいいのだが……。その「個」といっても、実は<意識>という宇宙全体にひとつしかない<主体>につながることによって「個」であるに過ぎず、「個」とは、ひとつの<意識>がその全能を表現するためのさまざまの状況にすぎないのだろうが……。 この単純な事実、進化した物理学が認識しうるこの紛れもない単純な事実を理解したら、アイデンティティの獲得とか、アイデンティティの実現など、誰も問題にする者はいなくなるだろう。 それに、獲得すべきようなもの、実現すべきようなものがいったいアイデンティティといえるだろうか。それこそ、そんなものがアイデンティティではないことの何よりの証明ではないだろうか。 OSHOは、ただ単純にこう告げる。 「あなたのような人は、この世界にひとりもいない−−これまでいたこともなかったし、二度と現れることもけっしてない。あなたひとりだけだ……! 一人ひとりの個人がユニークだ。ユニークさとは、存在からの贈り物だ」と。 OSHOは、人は生まれながらにしてけっして自由でも平等でもない、という。人は「<種【たね】>として生まれる」と。 人は自由を達成するための<種>として生まれる。 生まれながらにして自由なわけではない。また人は、生まれながらにしてけっして他の人と等しくはない。人は生まれながらにしてユニークだ、というのが、OSHOなる原理の宣言だ。 OSHOは、人は自らのユニークさを実現するための平等の機会を与えられるべきだという。 二〇世紀までのスローガンは「自由」と「平等」だった。このスローガンは、ある意図の下に、人は生まれながらにして「自由」で「平等」だという虚構にすり替えられた。その虚構の天国のスローガンの中で、偽りの独自性を確立するために、私たちは逆に無用の地獄を創り出してきたのだった。 私たち命の担い手である一人ひとりの「個人」は、自分で認めようが認めまいが、そんなことには関係なく、絶対的に事実としてユニークなのだ。未熟であろうと何であろうと、私たちは宇宙の中で掛け替えもなくユニークな存在であり、どんな生命体を前にしても対等な存在だ。 この単純な事実を私たちに納得させるために、地球がどこまで苦しまなければならないかは、まさに私たち自身の理解力いかんにかかっている。 (p355-359) |