日本のサニヤス・ムーブメントを思うとき、私の頭にいつも思い浮かぶある光景がある。それは現実の光景ではなく、空想上の、日本の本屋の棚の光景だ。
本屋というところは、ある意味で実に面白いところだ。人間の過去と未来が、現代という文脈の中に映し出されて、一望の下に展開されているように思われる。本屋の書棚の中のある場所は、ある人にとっては未来であり、別な人にとってはその同じ場所が過去であるかも知れない。そういう過去と未来が今という時代に焦点を合わせて、読者の購買欲に対して訴えかけている。
地方都市のいちばん大きな書店、あるいは大都市の大書店の場合、店の入り口近く、あるいは店内中央のいちばん目立つ平台には今話題の文芸書やビジネス書が並んでいる。ところで、日本人サニヤシンなら誰でも知っているように、和尚の本がそのような平台に並ぶことはない。それは本屋のいちばん片隅の宗教書、あるいは精神世界の本というようなジャンルの棚に並ぶことになる。そこが日本人サニヤシン誕生のメインスポットだ。
今、想像上の本屋のそのような片隅に近づいてみよう。思想的な色合いの濃い書籍が並ぶそのような書棚には、「哲学」、「心理学」、「宗教」(その中の一ジャンルとして「精神世界」、「ニューサイエンス」)といった分類標識が見えてくるだろう。目の前にあるのは心理学書の書棚だ。最新の心理学理論から、心理学の古典、臨床的な書籍、精神安定のためのハウツー物までが並んでいる。
この本棚の前に立つ客の顔を想像してみる。このような専門色の濃い書棚の場合、何となく興味があってここに近づいた一般客の他に、まず考えられるのは心理学あるいは関連学科を専攻する学生だろう。次に心理学部門のセミ・スペシャリスト、言ってみれば大学の助手のような人たち、次いでいわゆるスペシャリスト、大学の教授や心理療法に携わっている人たちだ。だが無論それだけではない。いってみれば患者予備群とでも言った自覚を持つ人たちもそこに立つはずだ。
今、心理学書を眺めていた客が、ふとその隣の書棚の宗教書に目を向けたとしよう。その中の誰が実際に宗教書のコーナーに歩み寄り、そこに並ぶ本に手を出すことが考えられるか? 思想書に手を出すこの人たちこそ宗教書に最も親和性の高い人たちであるはずだ。大学の教授は手を出すだろうか? 多分個人的に特に関心を持っている人以外はまず出さないだろう。ではインターン生はどうか? これもほとんど考えられない。一般の学生はどうか? これは可能性ありだ。学生はまだまだ自由で、年齢的にもどんなことにも浅く広い関心を持つことができる。ではさっき言った、半ば患者予備群的な自覚を持って心理学書に手を出していた人たちはどうだろうか? 私が想像するに、この人たちこそ、日本で宗教書の前に立つ人たちと最も近縁の人たちではないかということだ。
私は、自分も含めて、日本の宗教書の読者を侮辱するつもりはない。だが日本のサニヤスパワーを思うとき、この宗教書というメインチャネルの日本文化の中での位置づけを思わずにはいられないのだ。
日本の宗教書の読者が、哲学書、心理学書の読者より少ないとは考えられない。だがなぜ日本ではサニヤス・ムーブメントは、社会的に認知されるほどのパワーにならないのだろう?
|