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「ツクヨミ」投稿文

割れた「鏡」

日本のサニヤス・ムーブメントを考える……(1992.March)

本屋の棚 (タナ) の前で
 日本のサニヤス・ムーブメントを思うとき、私の頭にいつも思い浮かぶある光景がある。それは現実の光景ではなく、空想上の、日本の本屋の棚の光景だ。
 本屋というところは、ある意味で実に面白いところだ。人間の過去と未来が、現代という文脈の中に映し出されて、一望の下に展開されているように思われる。本屋の書棚の中のある場所は、ある人にとっては未来であり、別な人にとってはその同じ場所が過去であるかも知れない。そういう過去と未来が今という時代に焦点を合わせて、読者の購買欲に対して訴えかけている。
 地方都市のいちばん大きな書店、あるいは大都市の大書店の場合、店の入り口近く、あるいは店内中央のいちばん目立つ平台には今話題の文芸書やビジネス書が並んでいる。ところで、日本人サニヤシンなら誰でも知っているように、和尚の本がそのような平台に並ぶことはない。それは本屋のいちばん片隅の宗教書、あるいは精神世界の本というようなジャンルの棚に並ぶことになる。そこが日本人サニヤシン誕生のメインスポットだ。  今、想像上の本屋のそのような片隅に近づいてみよう。思想的な色合いの濃い書籍が並ぶそのような書棚には、「哲学」、「心理学」、「宗教」(その中の一ジャンルとして「精神世界」、「ニューサイエンス」)といった分類標識が見えてくるだろう。目の前にあるのは心理学書の書棚だ。最新の心理学理論から、心理学の古典、臨床的な書籍、精神安定のためのハウツー物までが並んでいる。
 この本棚の前に立つ客の顔を想像してみる。このような専門色の濃い書棚の場合、何となく興味があってここに近づいた一般客の他に、まず考えられるのは心理学あるいは関連学科を専攻する学生だろう。次に心理学部門のセミ・スペシャリスト、言ってみれば大学の助手のような人たち、次いでいわゆるスペシャリスト、大学の教授や心理療法に携わっている人たちだ。だが無論それだけではない。いってみれば患者予備群とでも言った自覚を持つ人たちもそこに立つはずだ。

 今、心理学書を眺めていた客が、ふとその隣の書棚の宗教書に目を向けたとしよう。その中の誰が実際に宗教書のコーナーに歩み寄り、そこに並ぶ本に手を出すことが考えられるか? 思想書に手を出すこの人たちこそ宗教書に最も親和性の高い人たちであるはずだ。大学の教授は手を出すだろうか? 多分個人的に特に関心を持っている人以外はまず出さないだろう。ではインターン生はどうか? これもほとんど考えられない。一般の学生はどうか? これは可能性ありだ。学生はまだまだ自由で、年齢的にもどんなことにも浅く広い関心を持つことができる。ではさっき言った、半ば患者予備群的な自覚を持って心理学書に手を出していた人たちはどうだろうか? 私が想像するに、この人たちこそ、日本で宗教書の前に立つ人たちと最も近縁の人たちではないかということだ。
 私は、自分も含めて、日本の宗教書の読者を侮辱するつもりはない。だが日本のサニヤスパワーを思うとき、この宗教書というメインチャネルの日本文化の中での位置づけを思わずにはいられないのだ。
 日本の宗教書の読者が、哲学書、心理学書の読者より少ないとは考えられない。だがなぜ日本ではサニヤス・ムーブメントは、社会的に認知されるほどのパワーにならないのだろう?
和尚はどれほど知られているか?
 例えば、今大ざっぱに想像してみて、日本の人口の十人に一人が和尚という存在を、あるいはバグワン・シュリ・ラジニーシという名前を知っているだろうか。無論とんでもない、という答が返って来るだろう。では、百人に一人ならどうか? とてもとても。千人に一人は? それもまず怪しいのでは。一万人に一人ならどうだろうか? 一万人に一人なら日本の人口を一億二千万として一万二千人だ。それよりは多そうだ。ということは、日本人の何千人かに一人は和尚を知っているということだ。だが、これでは日本人が和尚に出会っているとは言えない。
 なぜ日本の中で和尚はこれほどにも知られていないのか?
 それは幸か不幸か、従来和尚の世界への主要な接触面であった宗教書というものが、日本国内の文脈の中ではきわめてマイナーなチャンネルでしかなかった、というところに一因がある。
 日本の書店での宗教書のコーナーは、禅の悟りを求めるような人たちを対象とする若干の仏教書と、それとは少しコーナーを分けた幾分気取ったキリスト教の書籍の他は、現世利益を売りものにするいわゆる新興宗教や超能力者たちをばらまいた、玩具箱のような観を呈していたと言っていい。最近はそれにいわゆる「ニューエイジ」、別の言い方で「精神世界の本」と呼ばれるジャンルが発生してきて、従来の現世利益の新興宗教の書籍とは一線を画すようなコーナーを作っている。今急成長しつつあるのはこのコーナーであり、和尚の本もこのコーナーの中に並ぶことになる。
 だが日本人の一般的な常識、それもいわゆる読書人口と呼ばれる人たちの常識の中では、まだ宗教書とは若干いかがわしい、あたかも自らが弱者であることを晒すような、疚しいとまでは言わぬまでも、ちょっとその前に立つことが気恥ずかしいようなコーナーであると言えるのではないか。
 もちろんこんな常識は私の思い過ごしかも知れず、あるいはここ十年来の大きな変化でどんどん変わって行っているかも知れない。だが、日本人の平均的な読書人口、中でもいわゆる優秀で健康でタフなマインドを持つ人たちが立ち寄るには、宗教書の棚はいささか不似合いな所であることだけは事実だ。
 ではその人たちが、和尚が語るようなことに対して、あるいはそのようなこれからの時代の趨勢に対して無縁な人たちであるのかと言えば、無論そうではない。いや逆に現在の日本の物質的な富を生み出している人たちこそ、そのような人たちでであり、現在日本が持っている流動資産を総体として動かす人たちもそのような人たちだ。
 日本の救済を求める魂に対しては、和尚のメッセージは充分に届いたと言えるだろう。だがそれは日本人の中心的マインドの中に、本屋の中の宗教書のコーナーほどの位置も確保してはいまい。
 和尚は『神秘の次元』の中で「……物質に関して世界の知識が増加するその速さと、科学が大股に進歩しつつあるその速さに目を向ければ、実際、宗教は科学より幾分は前を進み、より以上の高速を達成しなければならない−−なぜなら宗教が科学に遅れをとった時はいつでも、科学は大きな害をなすからだ。宗教は案内のために少し前にいるべきだ。理想は常に少しは前に出ていなければならない、そうでなくてはその理想は無意味になるからだ。理想は常に達成されたものの前方にあり、それを超えたものであるべきだ。……」と言っている。だからある意味では、和尚の語る言葉は、そのメッセージが本当に届くべきその人たちに、まだ到達していないとも言える。別の言い方をするなら、和尚はまだ日本という世界の中で認知されていないということだ。
神道:日本人マインドの中核
 どうして宗教というものが日本ではそのようなマイナーな世界になってしまったのか? それを考えるには日本文化の中での宗教の位置づけを、そして特に仏教伝来以前からの土俗宗教であった神道の特質を考えてみる必要があるかも知れない。
 海外旅行で自分の宗教を書く必要があれば、多分大部分の日本人は仏教と書くだろう。中には無宗教と書く人もいるだろうが、神道と書く人は恐らく皆無に近いはずだ。そしてその何れの場合にも、自分が書いていることに対する驚くほどの無関心が共通していることだろう。だが日本人の思考の大枠を考えるには、やはり神道の本質に触れないわけには行かない。
 神道そのものは、人間の力を超えたものを恐れ敬う素朴な信仰だったと思われる。だが、この日本古来の宗教の中核には、結論が先に見えてしまうような直感的早見えと、その直感を論理化することに対する拒否が一組になって秘められているように思う。そしてそのことの副産物、イデオロギーを持たないが故の抱擁性と、外来物を呑み込む強力なそしゃく力がよく言及される。
 教義を持たない神道を象徴的に語り得る材料として、古来神道が三つの宝として大切にしてきた「三種の神器」を挙げるのが妥当だろう。神道の三種の神器、<鏡>と<曲玉>と<剣>は、古代の人たちの愛好する器物でもあったろうが、現代の私たちにしてみれば、これを「意識」、「魂」、「エネルギー」の、あるいは「直感」、「志」、「力」の象徴と考えてみる誘惑を避けられない。
 <鏡>は全体を曇りなく映し出す知恵の象徴であり、これが曇ることは全体とのつながりが塞がれるという意味を持っていただろう。だがこの<鏡>の中には本来、潜在的に二つの原理が混在していたと考えられる。
 一つは女性原理としての汚れなき「直感」であり、もう一つは全体を曇りなく見極める男性原理としての「理知」の目だ。ところが、神道では「直感」という女性原理だけが強調され、元々そこに含まれていたはずの「理知」の目という男性原理は、むしろ「直感」を弱める汚【けが】れとして忌み嫌われるようになった。
 神道が最も忌むべきものとする汚れとは、直感の濁り、全体との通路の閉塞、許しの途絶であり、キリスト教ふうに言うなら罪そのものであっただろう。この汚れに対する忌避は、神道の中では論理に対する忌避、あるいは言語化に対する忌避に転化して行った。人間が人間の論理的努力で神の意図を推し量ることを恐れ多いものと考え、そのことを最大の傲慢、最大の汚れと考えたのだろう。その意味ではアダムとイヴの楽園追放に通ずるものがあるかも知れない。
神道:短絡した男性原理
 確かに全体を「理知」の目で見極め、それを言葉によって定着することは流動的な世界を固定するような恐怖があっただろう。従って神道では、男性原理はもっぱら<曲玉>である「志」の清さと、<剣>としての「力」の表現に委ねられた。
 ここに、元々政治原理として機能することの多かった神道を、「理知」という男性原理とは極めて無縁のものとしてみなす日本人の発想が定着したと思われる。
 このことはまた、日本人の価値観の中に「純粋」という価値を非常に高める結果にもなった。そのような世界では、意図が純真であり、汚れがなく、一途であるなら、その意図そのもののバランス感覚とか、調和性など、換言すれば、その意図そのものの愚かさは許されたのである。
 そのような世界の中では自らの意図を極めて論理的に理詰めで証明し、主張しようとすることは忌避の対象にしかならなかった。鹿児島弁に「義を言うな」という表現があると聞いたことがある。男子たる者、理屈を言ってはいけない、弁解してはいけない、それは男子たる者の美学に反する、という意味だと聞いた。
 大なり小なり、このような美学が日本にはあった。それが理詰めの主張を忌避し、逆にその志しの純真さ、汚れのなさ、幼児的とも言い得る一途さが無批判に称揚される面があった。神道で大切にされる言霊 (コトダマ) は、論理の言葉、理知の言葉であるよりは、志しの清らかさを強調した、むしろ呪文 (マントラ) に似た言葉だった。
 もともと宗教は女性的な、直感的一体感を根拠とするものではあったが、それを男性の論理が侵食して行った一神教の世界とは異なり、神道の世界では、直感が純粋に直感であり続けることが尊ばれ、それを論理化しようとする男性原理はどこまでも排除されることになった。「直感」という女性原理、右脳的世界とバランスを取るべき男性原理は、必ずしも左脳的働き、「理知」、論理のエネルギーと結びつかず、むしろ<剣>に象徴されるような物質次元での荒々しい勢い、純粋で盲目的なエネルギー表現として男性的側面を表現することになった。日本で最も神道の世界と深く結びついた社会的分野に、政治家、企業家の他に、「ヤクザ」の世界があるのはそのためだろう。
 神道的世界には、非常に純度の高い直感が、非常に盲目的な暴力的エネルギー表現と短絡するような側面が最初からあったと考えられる。つまり、直感を論理的に、かつ組織的に形成して行くような理知的な男性原理を中に抱擁していなかったのだ。
 このことが逆に、中国あるいは西洋からの外来文化を無差別的に取り入れることを可能にし、そのことで自らのバックボーンを変更する必要はなかったのだと考えられる。日本には西洋で言うところのバックボーンに当たるものがなかった、とも言える。
割れた「鏡」
 和尚は、「反逆そのものが、日本ではまだ知られていない」と言う。日本人の意識は、無垢な純真さでまっしぐらに天空に向けて駆け昇ることを目指したろうが、全体をありありと映し出す冷静な「理知」の目と、その目を維持する勇気は育まなかった。
 おそらく初陣に出かける息子を送り出す母親のような存在がそこにはあって、純粋でまっしぐらな志しが走り出す方向を、その母親が与えていたのかも知れない。その女性原理としての<母親>はあくまでも、現状が機能すること、現状が運転し続けることを至上の命題としただろう。かくて日本人の最も重要な価値観は、一見不動と見える世界の中での「現状維持」の価値観、「和」の価値観となったと思われる。
 大和魂とは何だろうか? 一言で言えば、それは私心のなさ、疑うことのない純真な心で共同体内で是認される方向に進むということだろう。言ってみれば、それは自動車がピュアーガソリンを燃やしているということだ。その自動車がどこを向いているかは問題にされていない。純粋とは何を意味するか? それは前もって理知的に考えられた合理性、損得勘定がないということだ。ではその動機の方向はどこで決まるか? いわば世間教とも言える日本人の価値観「和」の中で決まる動機、社会の諸機能を加速する方向での動機であることは間違いない。
 大和魂の日本人は、大東亜戦争で負けて痛烈に物質文明の価値観を学んだ。それを超越すべきものとしてというより、むしろ獲得すべきものとして学んだと言える。
 物質的富ということになれば、現代日本は一番手ではないまでもかなりの水準に達したことは間違いない。だがいったんその目標らしきものに間近まで来てみれば、物質的富の北極を目指してひたすら北進してきた方向感覚はどうしようもなく散乱する。この先何処へ向かって行けばいいのか、前進か、後退か? 目前に近づいた目標は、ただただそれが仮の目標、取りあえずの架空の地点だったことを暴露するだけだ。
 ここで初めて、これまで充分に機能してきた神道の根本的な価値観、「和」の価値観は失速する。ひたすら現状を上手く機能させることだけを目当てに維持促進されてきた「和」という価値観は、機能すること自体の方向性が問題になるとき、その方向を新たに創出する種子を中に持たないからだ。
 いま日本が、いやあるいは地球が、死ぬほど求めているものは左脳原理と右脳原理が共振するようなビジョンだ。
 生の規範、その原理の創造に参与することを拒否された日本人の左脳は、もっぱら物質文明への加速原理として機能してきた。日本人の優秀な頭脳はひたすら西洋文明を追いかける科学的マインドとして、あるいは日本を上手く動かす政治的マインドとして機能してきた。この分野は充分に広く、工業的マインドも、商業的マインドも、政治的マインドも吸収し続けた。しかも日本人は勤勉だ。
 だがこのように優秀な日本人の左脳は、日本人の意識的な価値観の建設に参与していない。日本人が神道に関係を持つのは正月の初詣と、七五三と結婚式だけであり、日常の意識的価値観とはまったく無縁だった。当人自身、自分は宗教とは何の関係もないと思ってさえいるかも知れない。そして左脳的に優秀であればあるほど、そのマインドは日本人の右脳原理を意識化することはなく、あまりにも意識の表面から離れた裏側の大きなソフトとして機能することを許したと言わなければならない。
 つまり左脳として優秀なマインドは、無論理な宗教の世界を、いわば弱者の世界であるかのように笑いながら、実際上は「和」の原理の中で最も効率よく機能することになった。それは物質文明に出会う前も、それに痛烈に出会って衝撃を受けた後も、本質的には何の変化もなかったと言える。
 何のために誰がどこに向かっているのかの方向指示器は、日本人の場合は個々人の中に備え付けられているのではなく、集団社会を形成している根拠としての女性原理、組織が機能するという至上命題に沿った「和」の原理の中にはめ込まれており、その「和」の原理が指示する実際の方向は、その時々の「空気」によって決定された。
 日本人はそれに大枠をはめて、イデオロギー化することを恐れたのだ。西洋世界は何らかの外在化された行動規範をバックボーンとして持っていたが、日本人の場合は自らの行動規範を自ら意識することを嫌った。
どうすれば日本人は和尚に出会えるのか?
 では日本を総体として動かしているタフで健康な人たち、そして宗教というものを無論理な、救済をねがう弱者の世界と考えているこの人たちに、和尚に出会い得るチャンスを提供するにはどうしたらよいのか? その人たちが自ら宗教書のコーナーを覗きに来るまで待つことはできない。自ら来る人は、もうすでに来ているからだ。もちろんあらゆる人々に、和尚を紹介することはできない。誰も自らが理解したくないことは理解しない権利を持っているし、理解できることとは自ら許容し得ることに他ならないのだから。
 だがこれまで決して宗教書のコーナーなど覗くことなどなかった人たちの中にも、和尚のメッセージが必要な人たちは必ずいる。その潜在的需要は、実は想像もできない程かも知れない。だがその人たちは、自ら自分が理解している宗教を求めることはなだいろう。むろんそれでもいい。和尚は決して、いわゆる宗教などではないのだから。和尚のメッセージの中にはその人たちが必要としているものがある。日本の大部分の若者たち、壮年の人々、年老いた人々が本当に必要としているものが。
 そのような日本人の中心的なマインドに対して和尚をどう接触させるか、それが私がここ何年か考えてきたことだった。
 一つの国が、あるいは一人の個人が何かに出会うとは、その国の欲望が、あるいはその個人の欲望がその何かをキャッチすることだ、と私は思う。つまり、日本人の欲望が和尚のメッセージをキャッチしなければならない。欲望に対しては欲望の言葉で語りかけなければならない。それも決して現世利益を求めるような弱者の欲望にではなく、より多くを獲得し、より多くの健康を、より多くの贅沢を、より多くの福祉を獲得しようと思っているタフで旺盛で、しかも人間としての弱さと妥協を秘めた日本人たちのマインドに。  現代のいわゆる先進国の中で、肯定的イメージにせよ、否定的イメージにせよ、和尚の知名度がこれほど低い国はないかも知れない。まるで地球が日本をとっておいたようだ、と思うのは私ばかりではないだろう。
 私は密かに、日本人のマインドのメインカレントが和尚を認知したときが、地球が代わるための一つのエポックになるだろうと思っている。
 和尚がインド国内で、自分のメッセージを広げるために「宗教」というカモフラージュを必要としたように、日本では和尚は、「時代の趨勢」とでもいったマスクをかぶらなければならないのかも知れない。
 私は日本人のマインドに和尚を紹介するために、ビジネス書の範疇に入るような本を書かなければならないと考えるようになっていた。曰く、

 『21世紀の指導原理 OSHOとは何か?』

とでもいうような本を。和尚が原理などでないことは分かっているのだが……。

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