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『21世紀への指導原理 OSHO』より

寓話●“部分最適化系”の話A


 やがて「個」は急速に大きくなった。
「個」たちの熟練した“科学”操作に対して、“自然”という名の「全体」はほとんど何時も予期通りの結果を返してよこした。“自然”が予期通りの結果を返すことは当然と考えられ、それは「個」の思い通りになるものになった。
 不動の実在としての「全体」は忘れ去られた。
「個」の思いを通すには、部分最適化という手法が最も効率的と考えられた。また“自然”も逆らうことなくその効率的な侵略を受け入れるようだった。
 一方、“武力”を根拠にした地上の支配は“政治”と呼ばれる“権力”に統一され、遠く“神の代理人”の超越的な“権威”と呼応しながら、「個」たちの世界に“支配”の構造を深く根付かせていった。
 一度“神の代理人”の逆鱗に触れたことのある“科学”は、二度と再び敢えてそれを試みることなく、支配される者の位置を守りながら、ひたすら“自然”操作の効率に自らの表現の場所を求めた。“科学”は、自ら“判断力”という「個」本来の尊厳を避け、自らの“支配”ゲームを、ひたすら“自然”という物言わぬ“対象”に駆使することを選んだ。その空隙に乗じて、“政治”は巧妙に自らの支配権を“科学”の上に及ぼすことができた。
 そのとき、“不安”の一部は“強迫観念”というものに変質していった。「個」たちは怪しげな時間帯に入り込んで行くようだった。
 そしてその時も、「個」は唯一の実在「全体」の有機的な部分だった。

   そしてついに、「個」が爆発的に大きくなるときが来た。
 これまで「個」たちの行為を、無限の大きさを持つ対象のように、跡形もなく吸収してきていた“自然”は、突如として、それが「全体」でもある姿をさらけ出し始めた。様々の「個」の様々の部分最適化の結果が、「全体」の中でその姿を現し始めた。
 しかしその時それぞれの「個」は、自分を「全体」とは切り離された部分と考え、ひたすらその自分の範囲内での最適解を求める、いわば“部分最適化系”とでもいうしかないある特殊な虚構の世界にさまよい込んでおり、“均衡系”とも“有機系”ともいうべき唯一の実在、「全体」との通路を見失ってしまっていた。
「個」たちは“部分最適化系”という虚構世界の中で猛烈に効率を求めたが、その架空の効率は実在の“有機系”「全体」の中で、あくまでも有機的に機能した。
 その時までに“神の代理人”と“政治”の、二つの地上の“権力”は統一を成し遂げており、両者による地上の“支配”ゲームは完成の域に近づいていた。
 今や、「個」に対する、“自然”に対する、「全体」に対する、最終的、絶対的“支配”を目前にした地上の唯一の“権力”は、総力を上げて奉仕する“科学”を率いて、地上“支配”の仕上げにかかっていた。
 眼前で崩壊して行く「全体」を目の当たりにしながら、「個」たちはそれを信じない。呆然としてなす術を知らず、むしろそれを無視する道を選ぶ。
“強迫観念”によって“部分最適化系”の虜にされている「個」は、唯一確かなものであるはずの“部分最適化系”のリアリティに縋ろうとする。
 まるで、生きているのは「個」だけであるかのようだった。
 そしてその時も、「個」は唯一の実在「全体」の有機的な部分だった。(p63-65)

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