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『21世紀への指導原理 OSHO』より

    舞台裏の独り言@


 世界はどうしてこんなに複雑なのだろう。
 どうしてこんなにまで、見通しがないのだろう。
 これではまるで、私たちは罠にはめられたみたいなものではないか。
 生きることは、どうしてこんなに大変なことなのだろう。
 みんな、なぜこんなに馬鹿げた世界に我慢しているのだろう。
 生きるということは、こんなに綱渡りのように難しいことなのだろうか。
 私たちはどうして、こんなに大変な道ばかりを歩もうとするのだろう。
 私たちは一人ひとり、納得ずくで苦しんでいるとでもいうのだろうか。
 これではまるで、生まれてこなかった方が良かったみたいではないか。
 人間が生きているのは、もしかしたらただ死ねないからにすぎないのでは……。

 いつからか、こんなふうに考えるようになっていた。

 そして何時からともなく、「それなら生まれてこなかった方が良かったみたいではないか」という内心の声が、常に通奏低音のように私の中を流れるようになっていた。
 自分の意識の中では、「生まれてこなかった方が良かったみたい」というのは常識のようでもあり、あってはならないことの紛れもない証明のようでもあった。
「世界は何ゆえに始まってしまったのか?」というような途方もない理屈を考えることが、若気の至りとでもいうのか、ときどき発作のように私を襲う一種の思考癖のようになっていた。

 そしてある時、OSHOの言葉に出会った。
「生とは解決されるべき問題ではない。生とは生きられるべき神秘だ」と。

 それは“私”が納得したくない言葉であり、また“私”の下に深く押さえつけられた私の“いのち”が知っていた真実、求めていた言葉でもあった。
 私にはこのOSHOの言葉を理屈で納得することはできなかったが、それが真実であることは分かっていた。
 人生の意味とはその人が“支えたもの”のことだ、というのは証明の必要などない自明のことだった。
 そもそも「世界は何ゆえに始まってしまったのか?」と問う者に、世界が何ゆえに始まったかが理解されるはずはなかった。
 自分が座っている座布団を両手で引っ張って、自分を持ち上げることができないのと同じだった。

「真理は常に逆説だ」とOSHOはいう。

 恐らくそれは、“真理”というものが「全体」を語ろうとする言葉の側からの試みだからなのだろう。
 もちろん言葉とは、何かを語り、何かを語らないことだ。
 何かを語ることは、何かを語らないことによってしか成り立たない。
 何かを自分の視野に捕らえたとき、半面どうしても何かを排除せざるをえない。
 視野に残された何かは、必然的に半面の真理にならざるをえない。
 それでも、なおその半面の真理を“真理”として語ろうとするには、その真理が、実は視野から排除された何かに裏打ちされた“逆説”となって初めて“真理”となる、ということへの見通しを含んでいなければならないということだろう。

 例えば私は、「世界は何ゆえに始まってしまったのか?」と問うた。
 そう問うたとき私は、自分をその問いの範囲の中に閉じ込め、自分の範囲から“その問いの答を知っている自分”を排除したのだろう。
 何かを問うとは、その答を知っている者を自分の範囲から排除することでもあることを、OSHOから教わったのだった。

 OSHOにそのことを教わって以来、答を知っている自分から発想するのを取りあえず癖にしてみることにした……。

 そんなふうにして、この本ができたともいえる。(p11-14)

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