自我 (エゴ) から出発するしかないということは初めから決まっていた。 人間が“自分”という扉を通じてしか生き方を選択できないのが、単なる偶然や錯誤であるはずがないという確信があった。 種は、エゴを含めて、この“自分”の中にあるというのが最初からの直感だった。 人間は他人の自己によって成長するわけにはいかない。 私の成長は私のエゴを通じて起こるはずだ。 私は私というエゴを通じてしか成長できないはずだ。 “成長”はエゴにしか起こらない、ということかも知れなかったが……。 そういう何か約束ごとのような仕組みが働いているのだと思った。 その“自分”の中に、秘密の扉があるはずだった……。 けれども、そう思う一方で、いわば“自分の欲”に焦点を合わせたそのような日常の時間が、まるで生きるに値しないように思われる瞬間もあった。 というより、正直にいえば、そのような日常の時間にはとても生きられない、という感じがあった。 そんなとき、ふっと、突然何かの匂いや眼前の風景に襲われて、自分が何か吸い込まれるように消える瞬間があって、よく「ああ、これがあるからまだ生きられる」と思うことがあった。 自分で勝手に“詩”と名付けていたそうした瞬間は、どうやら完全に眼前の風景に吸い込まれ、いかなる“自分”をも喪失した瞬間の遠い記憶であるらしかった。 OSHOに出会って以来、そういう一種だだをこねるような、それまでの感じからいえば一種脆弱ともいえる自分が、実は本当の自分なんだという確信をもらった。 身の程を知らぬ生意気が頭をもたげるようでもあった。 自分の弱さも生意気も丸ごと許して、なおかつそのエゴを通じて自分がどのくらい成長できるものなのか。 何だか自分を含めた人間がいとおしいようでもあった。 自分 (エゴ) の理屈を捨てることは、そんなに簡単でなかった。 自分 (エゴ) の理屈で自分 (エゴ) を攻めるより他にできることはない、と思った。もしそれがどうしても駄目な道なら、それがどうしても駄目な道であることを自分 (エゴ) が納得するより仕方がないではないか。 OSHOは、「あなたが、知ることはない」という。 エゴが理解する時は、けっして来ないのだろうか。 確かに、「全体」への通路は“エゴ”の中にはないだろう。 けれども、“エゴ”が自分で自殺の道を選ぶほど賢くはありえないとしたら、いったい何を体験させられたら死ねるというのだろう……。(p45-47) |