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『21世紀への指導原理 OSHO』より

舞台裏の独り言B


 インドのその町で「サニヤシン」と呼ばれるそれらの西洋人たちは、いかにもさっそうと風を切って歩いていた。
 サニヤシンとは、修行僧を意味するヒンドゥ語らしく、OSHOを発見した者たちはそのように呼ばれていた。
 白っぽいシャツから黒っぽい顔を出した小柄なインド人たちの中で、それでなくても目立つ大柄なその西洋人たちは、みんな全身に真っ赤な衣装を身に纏っていたのだから、かなりの遠くからでもすぐにそれと分かった。

 しかもその西洋人たちの動きにはどこか特別なところがあった。
 いってみれば、まるで空中を歩いているような感じなのだ。
 子どもが嬉しいときにするスキップしているような感じの歩き方の者もあれば、お釈迦様がいた頃の弟子の姿はかくもあったかと思われるような、真っ直ぐに背筋を伸ばし独り沈黙の世界を歩いているといったふうの歩きぶりの者もいた。
 ひとことでいうなら、初めて見たそのサニヤシンたちは、まわりのインド人とは文字通り別世界に住んでいるように見えた。
 自分もあんなふうになれるものかしら、と思った。

 その町での短い滞在の間に、私も赤い服を身に纏うようになった。
 それは一種の特権階級の印のようでもあり、まわりの世界と自分を聖別する魔法の衣のようでもあった。その上、百八個の黒っぽい木の数珠玉のネックレスを首に掛け、その先端に付いている同じローズウッドのペンダント(ヒンドゥ語でマラと呼ばれる)が胸の辺りにきているのだから、本人がどう思ってみても、この姿が喚起する触媒作用は強烈だった。
 リキシャに乗ろうが、買い物をしようが、こちらが一言を費やすまでもなく、そのインド人が「サニヤシン」を相手にしていることは間違いなかった。そしてそれは、ある意味では非常に楽なことでもあった。
 私も、それまでの自分という殻を脱いで身軽にでもなったかのように、その軽すぎる赤いローブを纏って、この常夏の国の空気の中を浮遊するように歩いた。

 帰途に立ち寄ったバンコックでも、事情は変わらなかった。
 私は、地上の生活を覗き見する宇宙人のような目で、赤い宇宙服を着てこの国の人たちの日常を外から眺めた。
 飛行機の中でも、空港に出迎えてくれた家族と会ったときも、その状態は私にとってはあまり変わらなかった。私が着ていた赤い服は日本の冬には少し寒かったが、その上にまだ纏っていた南国の空気が、蝉脱【せんだつ】したばかりの脆弱な私を守ってくれていた。

 私が初めて赤を着て“世間”を歩いたのは、一夜明けた翌日のことだった。
 赤い服を、と頼んでおいた私のために用意されていたのはまさに赤も赤、サンタクロースが着るような真っ赤な半コートだった。これで良かったのかと問う家人に、無論私は、これでいいんだと答えざるをえなかった。その真っ赤な半コートの上から、例のマラと呼ばれるペンダント付きのネックレスを掛け、えんじのズボンを履いて、私は家人と子どもといっしょに犬を連れて、海までの毎日の散歩に出かけた。
 初めて家を出たときに出会った隣の電気屋のご主人の、驚きと嫌悪をないまぜたその目を忘れることはできない。

 そんなこととは全く無関係の犬の元気良さに引かれながら、私たちは海までの道を歩いた。まわり中から私に向かって、人の視線が押し寄せてくるような感じだった。人が近づいて来るたびに、私の中の何かが緊張した。人気のない海辺の大きな光景がどれほどありがたかったことだろう。
 たかだか一時間にも満たない散歩から帰って、私はぐったりとくたびれはてていた。
 これが、私が“世間”の中で生きていたという言葉の意味なのだった。

 その後一年以上を経過したある時、買い物をしていたスーパーの中で、私はまじまじと自分の方に好奇の目を向けて近づいて来る中年の女性に気がついた。一瞬不思議に思ったが、彼女は私のマラを覗き込んでいたのだった。
 その時初めて、私は自分が赤を着ていることを忘れていたのに気がついた。
 そして同時に、実際に好奇の目を持って私の姿を見る人間が、それほど多くはなかったとにも思い至った。あの初めて赤を着て自分の家のまわりを歩いたときにも、もしスーパーで買い物をすれば、その姿を異様に感じて近づいてきたのはこの女性ひとりだったのかも知れなかった。
 それまで感じていたあの“視線”は、私自身のマインドの投影だったのだろうか。
 赤を着せることでOSHOが私に教えてくれたことは、やはり、経験してみなくては知りようのない何かだった。(p66-69)

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