「お前たちさえいなかったら、とっくに……」 そんな言葉を聞かされて、育ってきたような気がする。 「とっくに……」の後には、いろいろの言葉が続いたようだ。とっくに、辛抱が切れていたのか、とっくに、別れていたのか、それとも、とっくに死んでしまっていたのか……、とにかく、何だかそんなようなことだったのだろうと思う。 特にたったひとりの男の子だった私としては、何とも申し訳ない次第だった。自分の無力が辛く、恥ずかしかった。 父の暴力に打ち据えられる母を見るのは、幼い私にとっては驚天動地の出来事だったが、「お前は泣くことしかできないんだね」という母の言葉を聞くのは、それよりももっと恐ろしい辛いことだったような気もする。 男の子の私には、母の言葉は背骨の中心から入ったと思う。 少し極端な言い方をすれば、私は母からひたすら生きていることの“やましさ”、“申し訳なさ”を学んだと思う。 「お前も、大きくなったら父さんみたいに女を不幸にするんだろうね」 私は、そんなふうに母に引導を渡され、自分で小さいながら、結婚だけはしてはいけないのだと思うようになっていた。自分も結婚したら、必ず父のように女性を不幸にするに違いないと思った。 何時からか私は、人間が生きているのは死ねないからだ、と本気で思うようになっていた。 実際、何時も「死にたい、死にたい」と言っている母を見ている限り、母が生きている理由は、死ねないからということ以外にありそうにもなかった。 あまりにも何度もその言葉を聞かされて育った私は、中学生になる頃には、母の「死にたい」という言葉に出会うと、変に落ち着いたような声でこんなふうに反問していた。 「母さんはどうして、死なないの。誰も反対なんかしてないのに」と。 母は一瞬、息子の意外な反応に言葉を詰まらせたが、私の言葉を理解したくないようだった。たまたまそれを聞いた姉は「何てことを言うの」と私を遮った。「本気で言ってるんじゃないから」と姉は母に言っていたが、私としては本気で言っていたのだ。 “何ゆえに、世界は始まってしまったか”という、妙にひねくれた表現の問いを私が持つようになったのは、無論、“こんな世界は始まるべきではなかったのに”という理解が前提されていたからだろう。 けれども、そんなふうに複雑に歪んでしまった誘導尋問からは、どうやってみたところで何かまともな展望が出てくるはずもなかった。この問い自体、問いの形をとった“詰問”でしかなかった。 抜け道もなくそんな問いに自縛されていた私に、OSHOはただ、 「生とは、解決すべき問題ではない。それは生きるべき神秘だ」と教えてくれた。 考えることしかできない私に、その言葉は本当にゆっくりゆっくり効いた。 あのような問いによって、私はただ生きる勇気を出さないための口実を育んでいただけだった。そして自分の現実の生が、空しく自分の手から抜け落ちて行くのを片目で眺めながら、しかもそのことを自分でも確実に知りながら、どうにもできないでいたのだ。 私は、ひたすら不幸に向かうひとつの“意志”になった。 可能な限り人に迷惑を掛けずに、一本の蝋燭の火を守って、その火をけっして飛び火させることなく、燃え尽きさせていこう、と。 “私のこの人生が、全くの無駄だったことが明らかになるまで、私はそれが全く無駄であることを忘れないで覚えていよう”、私はそう思った。 何のために。 そんなことをして、何かいいことがあるとでもいうのか。私は何のために、こんな馬鹿げたことを思いついたのか。何の意味もないではないか。 OSHOは言う。 「だがそこにはあることがある。それは、自分が悲しみ、否定的な気分でいれば、より多く自我を感じるということだ。幸福で、自足し、歓びに満ちていれば、人は自我を感じない。幸福で、歓喜に満ちていれば自分は存在せず、他人もまた消える」と。 問いを発するそのことが、解答を排除する意志表明であるような問いを、私は問い始めていたのだった。(p102-105) |