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『21世紀への指導原理 OSHO』より

舞台裏の独り言E


 それは夜と昼がひっくり返った、青春とも言えない不幸な青春の一時期だった。
 私は、ドストエフスキーを読み、カフカを読んだ。
 そして、宮沢賢治と『正法眼蔵』を自国語で読めることが日本人に生まれた生まれ甲斐だと思っていた。
 頭だけは途方もない幻を追ったが、身体は何ひとつ動かなかった。自分が、この世に適応して生きてゆけるような気がしなかった。
 不安だけが澱 (オリ) のように身体の底に沈んでいた。
 私は可能な限り、夢と、幼年の日の追憶に生きようとしていた。
 その夢も、一度泊めてもらった友人から、お前はもの凄くうなされるんだな、と言われるような夢になっていた。

 ある時、私の前にたまたま、沢木興道老師の『正法眼蔵』の提唱「谿声山色」と、吉本隆明氏の『マルクス紀行』という文章が、読みかけのまま机の上に並んでいたときがあった。
 一方は、谿(タニガワ)の声も山の色も、森羅万象が私たち人間の目覚めを呼びかけていることを伝えていた。
 もう一方は、私たち人間は一見「個人」として現象しているように見えても、実は「類」としてしか存在しえない存在であり、「類」として死ぬべき者である、という『経済学哲学草稿』のマルクスの言葉を祖述していた。
 個々人が主観的にどんな自己規定をしようとも、そんな自己規定とは関係なく、人間は経済生活という下部構造(物質的過程)に規定された存在であることを認めなければならないといっているようだった。

 そうなのかも知れなかった。
 その二冊の本を前にして、私には、どちらが正しいとか、自分はどちらに与 (ク) みするとかいえるだけの確信もなかった。
 ただその二つの本にまったく別の言葉で語られているものが、ある同一の事柄に触れていることを理解するだけの力は残っていた。
 それは、宇宙の根拠に関する言及だった。
 一方は、宇宙の根拠に、人間の内面に対応する一種心情的なもの、いわば“慈悲”というようなものの存在を前提して語っているのようなのだった。
 ところが、もう一方は、宇宙の根拠に存在するのはいわば“物質的必然”ともいうべきものであることを前提しているらしいのだった。
 それは、個々の人間が自分をどんな存在だと思ってみても、そんな主観的な自己規定とは関係なく、宇宙の中心に存在するのは冷厳かつ無機的な“物質的必然”であり、人間の心情は、その“物質的必然”が自己展開する物質過程の上にあぶくのように乗っているものに過ぎないということであるらしかった。

 けれども、もしそうだとすれば、もし唯物史観というものが正しいのだとしたら、この自分の内面、この心情に対応する者が宇宙の中心にいないということになりはしないか、と私は思った。

 宇宙の中心に、この自分の内面に応える者が存在しない……。
 いったい、そんなことがありうるものなのだろうか。

 私にはどんな確信もなかったが、何かが納得しなかった……。(p124-127)

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