目を醒ましたとき、すぐにはそこが何処か分からなかった。 最初に眼に入ったのは、薄汚れた白い漆喰天井にできた“しみ”の形だった。 しばらくその黒っぽい“しみ”の形を眺めているうちに、ゆっくりと自分が今病院にいることを思い出した。 その時、その病室には他に誰もいなかった。 それから少しずついろいろなことを思い出した。 朝、初めて眼を覚ました時のこと。義兄がくすんだ顔で見守ってくれていたこと。 それから、友人が三人で見舞いにきてくれたこと。 そして、冗談めかして色々な話をしたこと。 けれども、二度目に眼覚めた今、徐々に迫ってくるその感じは、一度目のあの目覚めとはまったく違っているようだった。 それはまるで、今朝のあの一度目の目覚めは実は目覚めではなく、その前の瞬間からの続きに過ぎなかったとでもいうかのようだった。 今、白い漆喰天井のその黒っぽい“しみ”の形を眺めている自分に迫ってくるのは、何か信じられないほどの圧倒的なリアリティといったものだった。まるで病室を満たす空間全体がが立体的に立ち上がってくるかのようなそれは現実感だった。 それほどの現実感というものを、それまで感じたことがなかった。 では、自分はあのこと全体をしたのだった。 あれは、全部現実のことだった。 そして、今自分はここにいるのだった。 こんなことが、自分に起こっている。そんなことが本当にありうるものだろうか。 自分の人生に、本当にそんなことが起こったのだろうか……。 病室の白いドアが開いて、看護婦が入ってきた。 しばらく脈をとって、それから何かを記帳した。 「生きていれば、これからいいこともあるんだからさ」。記帳を終わって、ふとそんなことを言って彼女はベッドを離れた。 「ええ」、と微かに応えたのは、自分の声のようだった。 あのとき、自分が寝ているベッドの上に立ち上がった空間が、現実というものなのかも知れなかった……。 退院後、初めて本屋に寄ってみると、岡潔の『春風夏雨』という本が出ていた。 その中に、岡潔さんはこんなことを書いていた。 「医者に、生命とは何か、何をもって生きているとするのかと聞いても、医者はわからないと答える。これは聞くのが無理なので、医学は物質科学であって、けっして生命のことを扱っているのではない。生命に非常に関係が深いと思われているもの、例えば心臓の鼓動や脈搏は、生命に随伴した物質の現象にすぎない。私たちは物質現象にすぎないものを間違って生命と思って来たようである。「生きている」という言葉を学校で教えるときに“ミミズが生きている”などという例をあげるのが間違いなので、あれは物質の運動にすぎない。冬枯れの野の大根やネギが生きているというのが本当なのである」(p147-149) |