昔、夜と昼が逆になった普通の生活ともいえない日常の中で“ぼうふら”のように浮遊していた頃、“自由……”と、思ったことがあった。 「自由」についてのマルクスだかエンゲルスだかの定義を初めて耳にしたとき、それがなぜ「自由」を意味することになるのかまったく分からなかった。 はっきりとは覚えていないが、それは“自由とは、認識された必然だ”というような定義だった。 そんなことは、「自由」とはまったく関係がないような気がした。 その頃までの自分の感覚では、「自由」とは、そこだけ一足先に雪が融けた土手の斜面で雪の下の流れの音を聞きながら、ぽっかりと温まった枯れ草に友だちと寝っ転がって雲を眺めた、あの青空に吸い込まれるような気分のことだと思っていた。 でも、そんなことは何も知らない子どもっぽい「自由」の定義で、実は定義にも何にもなっていないのだった。 どうやら、大人の定義は、“自由とは、認識された必然だ”ということらしかった。 何とも解せぬながら、“自由とは、認識された必然”とは何をいっているのか理解しようとした結果、それは、“将来どうなるかを前もって知っていることが自由だ”、という意味らしいと分かった。 その“真意”が納得されるまでには、だいぶ時間がかかった。 というより、「自由」というものがそれだけのものだと諦めるまで、だいぶ時間がかかったということだろう。 しかしその内、その定義にも、なかなかもっともな理由があるのだと分かった。 “自由とは必然が分かっている状態だ”と言われれば、なるほどそんな気もする。 それでもやっぱり、そんなものでは、何だか「自由」な感じが味わえないような気もした。 夜昼ひっくり返っていたその頃、目の前に広げた本の白い紙の上を、見えるか見えないかの小さな紙魚 (シミ) が半透明の銀白の一点になって這って行くのを眺めていたことがある。 つと指で抑えて、スーっとその一点を引っ張ると、本の頁の上に一本の細い線ができた。 自然の意志に完全に操られたその一点の紙魚は、そのときの自分にはこの上もない「自由」を表しているようにも見えた。 しかしまた、開かれた頁の上の残ったその一本の線には、「自由」の“かけら”も存在しないようでもあった。 それ以来、「自由」という言葉に出会うと何時もその一点の紙魚が連想された。 自然の意志に全面的に支配されて、何の思いもなく本の頁の上を這っていたその紙魚のように“自由”でありたいという憧れと、まさに「自由」の正反対とも思われる紙の上のその一本の細い線が頭に浮かんだ。 もうどう自分をごまかそうとも、“必然の先取り”が「自由」だなどとは思えなくなっていた。それこそが、罠にはまった日常性の定義そのものだった。 あの紙魚は、なぜ私に「自由」を連想させたのだろうか……。(p177-179) |