私が育った町は、北海道の大きな平野の真ん中にあった。 子どもの頃から、西の彼方に大きく視界を限っている遠い山脈を眺めながら育ったのだった。 京都を模倣したらしく、東西と南北の方向に大通りが走って、その町を碁盤目状に縦横に仕切っていた。そして南北方向の大通りの中間に裏通りという少し細い通りが走って、表通りとは少し違う居住区域を形成していた。 私が育った家も、東西に流れる川の近くのそんな裏通りの一隅にあった。 子どもたちは学校から帰ってくると、みんなすぐに外に飛び出して道路で遊んだ。 子どもたちが遊ぶ裏通りには、もともと車など来ることはまずなかったが、もっと広い東西に走る通りでさえ無論舗装などはされておらず、あたり中に丸石が転がった砂ぼこりの立つ広い道だった。 子どもたちはあらゆる路上での遊びを知っていた。 春の土が柔らかくなる頃には、よく「釘刺し」という地面の上での一種の陣地取りのようなゲームをやった。 男の子たちと女の子たちの遊びは自然に別れたが、時にはそれが合流することもあった。男の子と女の子がいっしょになることは、遊び全体の規模を大きく膨らますことでもあったから、子どもたちは少なからず興奮したものだった。 私が子どもの頃、男の子たちの間でいちばん流行っていたのは、S型、陣取りゲーム、缶蹴り鬼、といったかなり荒っぽい格闘技じみた遊びだった。 特に人数が多くなったときの「S型」や、「陣取りゲーム」の図形は、家の前の裏通りの路上には描きれず、そんなときは東西に走る通りにまで出るのだった。 「陣取りゲーム」は、路上にかなり大きな矩形を書かなければならなかった。その大きな二重の長方形が子どもたちが逃げ回る道で、その四隅に描かれた丸い休憩地の中に逃げ込めば、鬼に捕まらなくてすむのだった。 ルールの分かっている子も、あまりよく分かっていない小さな子も、みんな懸命になってその路上に描かれた矩形の陣の中を走り回った。 初めはたったひとりだった鬼が、ゲームの最後の頃になるとほとんど全員が鬼になって、わずかに残った鬼でない子たちを追い回すのだった。全員が鬼になってしまうと、また新たな鬼で、最初から始まった。 子どもたちは、何度も何度も繰り返して飽きることがなかった。 こんな面白い遊びは、永遠に続いてもいいと思った。 けれどもいつの間にか辺りは黄昏れて、ひとりまたひとりと、子どもたちは家の人に呼ばれて、夕食のために家に帰って行った。 いつの間にか、辺りに子どもは誰も残っていなかった。 赤い大きな夕陽が、今まさに遠い山脈にかかろうとしていた。 その遠い山の端にさしかかった夕陽はあまりにも大きく、その遠く大きな光にぼんやり見入って、気が遠くなっていくような感じに浸っていた……。(p245-247) |