今までの人生でたった一度だったが、金を儲けてみようと思い立ったことがあった。 ちょうど父親が死んだ直後で、若干使える金があった。 そして、自分ではそれが金を儲けることにつながると信じて、ある“仕事”に懸命になって努力した。 二年間、頑張った。今考えると、自分でもよく頑張ったと思う。 けれども、二年目の最後の頃になると、ただもう息苦しいような感じになった。 「酸素が足りない」というのが、仕事場での実感だった。 これではいけない、こんな弱気の言い逃れをして、一家の主 (アルジ) としての責任逃れは許されないぞ、そんなことを思おうとした。 ところがどっこい、どうにも身体が動かなくなった。 そして、儲かるはずが、それほどの思いをしているのに、実は大して、いやほとんど儲かっていないことが明らかになった。 頑張ること自体に意味がないのだった。 もっとも、物は思いようだ。その仕事が本当に好きだったら、それまでの投資は一種の準備と考えることもできたはずだった。 けれども、幸か不幸か、どうにも金儲けには興味が持てない生まれつきのようなのだった。そのことは、もし自分に正直だったら、本当は最初から自明のことだったとも言えるのだが……。 無論、金が欲しくないわけではない。 人並の金は欲しかった。 ただ金儲け自体は、自分にとって何の喜びにもならないことを思い知らされたのだ。 金儲けの努力にあれほど徹底的に失敗したことは、一種の恩寵だったと思っている。 その“仕事”をしている間に、まさに体験によるある種の洞察を得た。 それは、人間は「欲望」によって動く存在だという、陳腐な発見だった。 実は、その“仕事”はまったくの失敗だったわけでもなかった。 お客さんはあった。お金を出してもらうこともできた。 それは、別に普通の意味で、やましい仕事であるわけでもなかった。 だから、その“仕事”を継続することは可能だったし、どうすれば儲けることができるかも分かった。 一言でいうなら、人の欲望に働きかければいいだけだった。 それまでの私が知らないことだったが、思いがけないほど簡単に人はお金を出すものだということを知った。 そして出していただいたお金に対して、こちらは誠実に“仕事”をすればいいのだった。 その意味では必ずしも嘘はなく、その結果で人に恨 (ウラ) まれるということもなかった。 ただ、その“仕事”をしている当人の私が、そこで出されるお金が出す人の期待している結果をもたらす可能性は少ないだろうということを、経験的にはっきり知ったということがあるだけだった。 私は段々、お客さんがお金を出すことを望むような望まないような、妙な分裂した心境になっていった。 一言でいえば、「酸素が足りなく」なっていったのだった。 これで、儲かったらおかしな話だったのだ。当人の私が、儲かることを妨げていたのだから。 しかし、この体験によって、この世を動かしているものが「欲望」であることを、自分なりに痛烈に知らされた。 そして「欲望」とは、取りあえずは、私たち「個」の“最も賢い行動指針”だった。その意味では、「欲望」を持つ私たち「個」にとっては、自分以上に賢い存在はないのだとも言えた。 この体験で私は、「欲望」が変わる以外に自分がそして世の中が変わることなどありえないのだということを知った。(p269-272) |