実は、こういうことはできれば書きたくなかった。 これは、告白だ。 というと、どんな大層なことなのかということになるが、実は他人 (ヒト) が聞けば何ということもない、誰も驚かないようなことだ。 私は、「ああ、彼は自分を表現しているな。彼は幸運だな」と思われる人の噂を聞くと、何時もかすかに不幸になった。 自分には、それははっきりと分かったが、時には人にも分かったかもしれない。 それだけのことだ。 自分が特に嫉妬深い方だとは思わない。 そして、これだけは断じて言えるが、私が生まれながらにそういう人間だったというわけではない。けっしてそうではなかった。 これは、私が育ってくる過程で身に付けた、愚かしいソフトだった。 それは、私が確実に不幸になるための、実に実に愚かしいソフトだった。 人の幸福を心から喜べるというようなことが本当にありうるものだろうか、と思った時代もあった。 挫折を学び、自分の人生が失敗だったというような、思えば傲慢ともいえる苦い思いを味わった頃のことだった。 自分の人生を失敗だったと決めつけるそんな思い上がった気持ちの裏には、人生に成功があったり失敗があるのが、何とも納得いかないという気持ちがあったと思う。 多分、それからだいぶ経ってからだろう、結局自分は失敗と成功がない世界に行きたいのだ、と思うようになっていた。 今私は、人の幸福を本当に喜べる人間になりたいと、心から思う。 人の喜びがそのまま自分の喜びになる、これ以上に確実に幸福に至れる方法は存在しないことは、算術的なまでに確かだからだ。 それに実は、それしか本当に幸福に至れる道は存在しないともいえる。 しかしまた、本質的な意味では、エゴにはそれが不可能なことも分かっている。 私が次に考えたのは、エゴの愚かしい損得勘定にそのことを理解させることができないかということだった。その方が本当は“得”なのだということを。 さて、それはしかしなかなか厄介なことだった。 エゴはそれほど理性的ではないということかもしれないし、またどんなに上手い言い方を考えてみても、結局それは、死んでくれということを、エゴ自身に納得してもらおうとすること以外ではないのだから……。 “他人”の幸福を本心から喜べない、いや逆にそれが“自分”の不幸にさえなるということは、多分私だけの問題ではないだろう。これは私たちが棲んでいる波動域での集団的な現象であるに違いない。 けれども、私たちは、これを卒業しなければならないのだろう。 そして、これを卒業する事ができれば、その他のことは自ずから解決するのではないかという気がする。(p313-315) |