人並にまっしぐらに競争して、そのストレスに負けた時代が私にもあった。 今思い出すのも億劫 (オックウ) なような、それは暗い時代だった。 高校二年の時、私は慢性腎臓炎という名の病いにありついた。 今は無論のこと、その当時も自分の深い胸の内で、私ははっきり知っていたと思う。自分が、病気になりたかったのだということを。競争から降りてもいいという、公認の許可が欲しかったのだった。 減塩食をとるからという理由で下宿の食事を断り、しかし実際は料理などに興味を持てない私は、結局そこいらの食料品店で買ってきた缶詰を開けては、いわゆる病人食を食べていたのだった。通学していたのは当時いっぱしの受験校だったが、そこではすでに“重役出勤”のあだ名を付けられていた。 夜、枕元のスタンドの明かりで照らされた書見器で読んだ、赤ラベルの岩波文庫が何冊か思い出される。戦線脱落のためのこの公認の病名をもらったとき、新宿の伊勢丹で買ったこの木製の書見器は、その後の私の人生での長い道連れになった。それ以後再び身体を起こして本を読むようになるまで、一五年ほども経過しなければならなかったのではないだろうか。 その年の夏休み、私は慢性腎炎の症状を少し重くして両親のいる北海道の田舎に帰った。 その時、久しぶりに迎えてくれた父に言われた言葉を忘れることができない。 「もう少し頑張れんかったかい」と、父は言ったのだった。 慢性腎炎は、いってみればまさにぐうたら病の代表でもあった。外見的にはあまり病人のようにも見えなかったかもしれない。けれども高校生の私にしてみれば、それは身銭を切って手に入れた勲章のようなものでもあった。これだけの勲章を付けて帰ってきたのだから、私は大威張りで休んでもいいのだと思いたかった。 そして何より、自分の息子が力尽きて帰ってきたのだから、そのままそのことを認めてくれてもいいのではないかという甘えた感じでもあった。 慢性腎炎とは、私の心が望んだ病気に他ならなかった。 私は休みたかったのだ。 もっとはっきり言えば、私は降りたかったのだと思う。 私は、普通の意味で、自分が両親に申し分なく愛されたことを知っている。 けれども私たちは、途方もないマインド・コントロールを受けているのかもしれない。この競争というゲーム。この“もう少し”というゲーム。 私たちはどうして、唯一の実在の今を、ありもしない未来のために“もう少し”割 (サ) かなければならないのだろうか。 OSHOは教えてくれた。 「もう少しなどない。今私たちが持っているだけで充分すぎるのだ。私たちは、これ以上を手に入れることなどできない。今持っているものを、見逃すことができるだけだ」と。(p334-336) |