小学校の頃、岡田君という友だちがいた。 岡田君とは、高学年になってから同じ組になって急に仲が良くなったのだった。 岡田君は、背が高く、額の広いいかにも聡明そうな感じの少年だった。 ちょっと埴輪 (ハニワ) のような感じの目をしていて、さしずめ樹の種類でいえば欅 (ケヤキ) のような感じの人だった。 というより、北海道育ちの私は欅という樹を知らなかったが、後年欅という樹を知って以来、なぜか欅の樹を見るたびに岡田君を思い出すようになっていた。 岡田君は、子どもっぽい私などにはとてもかなわない感じがする、何処か大人の雰囲気を漂わせた少年だった。 岡田君の家は、当時街中 (ナカ) に移っていた私の家からはかなり離れた、西の方の閑静な郊外にあった。 一度岡田君の家に遊びに行って、その広い庭と、こじんまりとした清楚なその家のたたずまいに、何か自分の家にはない品格を感じたことがあった。 「やっちゃん、鶏小屋に入ったことあるかい」といって案内してくれたのだが、自分の家で鶏を飼っていること自体、町家に育った私には新鮮な驚きだった。 おじいさんが出てきて、孫の友だちの相手を少ししてくれたりした。 家の中には、額に入った男の人の写真があって、それが戦死した岡田君のお父さんの写真なのだった。お父さんは、潜水艦の艦長だったのだそうだ。 それ以来、岡田君とは何度かいっしょに写生に出かけたことがあった。 小学校最後の遠足だった。 その頃の遠足は、文字どおり遠くまで歩いた。 だから子どもたちにとって遠足は非常な楽しみではあったが、かなり覚悟のいる行事でもあった。 柏林の蔭の道をわいわいがやがや、みんなおしゃべりしながら歩き続けていたが、そろそろ歩きくたびれ、お腹も空いてきているのだった。 お前、何持ってきたのよ、と子どもたちはおやつを話題にし始めていた。 「あれ、岡田君、お前弁当持って来なかったんでないか」という、小島君の声が聞こえた。 あれ、ほんとだ、岡田君弁当持って来てないぞ、と何人かが不思議そうな声を出したが、岡田君は平気そうな顔で、黙って歩いているだけだった。 そのうち、最初に声を出した小島君が、「あれ、まさかそれが弁当でないべな」と言って、岡田君の腰の辺りを指さした。 見ると、岡田君の腰の後ろに、野球の球ほどの丸い形を作った小さな風呂敷包みがぶら下がっている。どうやらそこにたった一個のおにぎりが入っているらしいのだった。 小島君の声には少し皮肉な響きがあったのかもしれないが、岡田君はただ、「うん、弁当だわ」と、普通の声で答えたのだった。 そのあまりに普通の声に、かえって小島君はそれ以上何も言うことができなくなったようだった。 僕なら、とてもあんなに平気ではいられないだろう……、と私は思った。 こんなことが、わずか四〇年前には現実に起こっていたのだった。 岡田君は、無論、ありふれた子ではなかった。その意味では、四〇年前でもけっして平均的な普通の子ではなかったが、そうはいっても、そのときの岡田君の態度は当時の子どもたちの世界の中で異常事というわけでもなかった。 ありうるひとつの反応だった。 けれども、今の時代を考えると、あのときの岡田君の応対は、私には超常現象以上に奇跡的なこととも思える。 私たちは、いったい何を失ってしまったのだろう。 そしてこれから、私たちは、何を再体験させられることだろう……。(p389-392) |