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『21世紀への指導原理 OSHO』より

舞台裏の独り言Q


 結婚するまでどうしても人に言えなかった、ある思い出があった。
 それを初めて言ったときは、多分、聞かされている当人が想像もしないほどの勇気を私は出していたのだろうと思う。無論、可能な限りそんなふうには聞こえないように、冗談めかした声音でその打ち明け話をしたのだろうが……。
 それは中学生の時の思い出だった。
 私が生まれ育った北海道のその町の中学校での、それは私にとって最後の運動会になった。
 その年の私たちの学年の競争競技は、「目隠し障害物競争」というのだった。“猫にかん袋をおっかぶせ”という歌にあるような新聞紙で作った袋に頭を入れて、障害物の中を四つんばいで走っていく競争だった。

 運動場で整列して、先生からその競技の説明があったとき、どんなふうにそのヒントが私の頭に入ってきたのか、今の私はもう覚えていない。
 先生の口から出たものか、それとも近くの誰かが友だちとのおしゃべりでひそかに囁【ささや】いていたものか。とにかく、その時私は、めいめいが自分で作ってくるというその新聞紙の“かん袋”に、前方が見えるように針でたくさんの穴を空ける“卑怯な”奴がいる、ということを知ったのだった。
 家に帰ってから新聞紙で“かん袋”を作った後で、私が何を思ってその袋の猫の顔を描た側の一面に針で穴を開けたのかも、今となってははっきりしない。あるいは何も見えない中で盲滅法障害物の中を四つんばいになって走っていく所を想像して、恐ろしいと思ったのだろうか。それとも、前がはっきり見える状態でどんどん先に駆け抜けて、一等賞になりたかったのだろうか。その両方だったような気もする。
 いずれにしろ、そんなずる賢さを知らなければ無縁でいられたはずのその“穴”を、やましさに胸をドキドキさせながら私は自分で開け、自らその針の“穴”に落ち込んだのだった。

 翌日の運動会、いよいよ次の「目隠し障害物競争」の開始に備えて私たちが整列して待機したとき、「みんな近くの誰かと、自分の“かん袋”を取り替えろ」という先生の指示が聞こえた。
 私の頭は、真っ白になった。
 その後のことはあまり思い出したくない。
 自分の所にやってくる誰かの“かん袋”を隣の誰かに回したり、私はできるだけ全てががちゃがちゃになるように努力したのだろうと思う。実際みんなは大騒ぎでまわりは紛糾しており、そんな私の願いは少しは叶えられるようでもあった。私が作った“かん袋”を頭にかぶり、それから驚いたようにそれをもう一度脱いだ大寺君の顔を、私は確実に視野の片隅に捕らえていた。
 その時私は、自分の所に回ってきた“かん袋”に針の穴が開いていることをどんなに願ったことだろう。だが、私がかぶった“かん袋”からは、外の世界などまるで見えなかった。他には誰も、“かん袋”に針で穴を開けた者などいなかったのだ。

 それ以来、私は大寺君と口を利いたことはない。けれども、それから何日か後に、遠くの方から私を見ていた驚きとかすかな軽蔑を含んだような大寺君の大きな目を、私は忘れることができない。
 私は、それから間もなく、北海道のその町をひとり離れたのだった。
 そしてこの物語は、それから以後も永く自分ひとりの胸の内に畳まれていた私の上京の真の理由でもあった。まるでお誂 (アツラ) えのように当時中学生の私に上京の話が持ち上がったことが、自分にとってのまさに天の助けに他ならなかったことを、私はそれからも永く誰にも打ち明けられなかった。

 私の生涯で起こった最大の危機のひとつを、私はこうして“いなした”。
 けれども、私はこの危機を“切り抜けた”と言えるだろうか。
 いや、そうは言えないだろう。
 私はただ、逃げただけだった。状況を変えただけだった。
 恐らくこの危機は、痛烈に私に何かを教えてくれようとしたのだろうと思う。あらゆる危機がそうであるように。そして、私はそれを受け取らずに、逃げたのだった。これまで、何度も、何度も、逃げてきたように。
 けれどももし、逃げることができない危機というものがあったら、その時私たちはどうしたらいいのだろうか。いや、どうできるというのだろう。
 その時、私たちは直面するより他に仕方がない。そして、ただそれを受け入れるより仕方ないだろう。
 何に直面するのか。何を受け入れるのか。“自分”を、だ。(p403-407)

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