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「ニューチャイルド・ミーティング」依頼原稿



OSHOの教育ヴィジョン

(2000年6月10、11日 in 山梨県・清里)
■はじめに
 教育に関するOSHOのヴィジョンをご紹介するということは大変名誉ことですが、ある意味でかなりの冒険でもあります。というのは、賢者にはみなそういうところがあるかもしれませんが、OSHOの場合は特に、生涯の言動そのものがすべて一つの"教育論"とも言えるような人だからです。
 OSHOが生涯をかけてやったことは地球人類の教育であり、人類を過去の桎梏から解き放つためのまったく新しい「教育論」の展開であったとも言えるでしょう。
 OSHOがそういうタイプの賢者でしたから、OSHOの「教育論」はこうですとご紹介することは、ある意味でOSHOという大海の中から紹介者がわずかに自分の両手に掬い取った"部分"を、OSHOはこうですとみなさんに提示するような意味合いが発生してしまいます。OSHOが教えてくれたことで肝心なことはこれだ、というようなことは当然、OSHOの弟子や読者でそれぞれ異なるわけですから。
 と、まあ、最初にお断りしておいて、しかし、OSHOにも、いわゆる「教育論」として個別に展開した発言もありますので、そんなことも含めて、私が理解したOSHOの「教育ヴィジョン」をご紹介したいと思います。
■賢者の洞察
 今日本には、不登校、いじめ、家庭内暴力などさまざまの明白な「教育問題」が噴出しています。そこで、家庭や教育現場で人間としてのもっと基本的な"躾"をしなければならないのだ、というような議論が起きることになります。分かりやすいですし、もちろん、それが間違っているというわけでもありません。
 そこへ行くと、賢者の洞察というのは決してそれほど分かりやすくはありません。
 むしろ、我々普通の人間には"極端"に聞こえるだろうと推測すべきかもしれません。賢者がなぜ賢者と呼ばれるのかといえば、我々普通の人間には"通常洞察できないこと"を洞察するためなわけですから。
 要するに、賢者の洞察というのは、我々普通の人間の耳には「何もそこまで極端なことを言わなくても」と聞こえるような言葉であり、そうでなく「なるほどそうか」と聞こえた場合も、それが文字通りの真実だとは理解されていない可能性が高いのです。
 それに賢者であれ誰であれ、言葉で何かを指摘すれば、必然的にそれには含まれない範囲の事態は一見否定せざるをえません。だから、賢者の言葉を"誤解"するのは物凄く容易です。むしろ誤解しないことの方が難しいはずです。賢者は間違いなくできるだけのことをしています。言葉で言える限りのことを言っています、だからどうしても、我々の方が賢者が何を言おうとしているのかに耳を傾ける必要があるのです。
■OSHOの「教育ヴィジョン」の二つのトーン
 OSHOはどこかで「子供の解放が最後の解放になるだろう」と言っています。
 それは「教育」の当事者は子供であるのに対して「教育」の担当者は大人、という面があるからです。こと「教育」に関しては、大人(親)の解放を通じてしか子供の解放は考えられないということは客観的事実です。
 このために、「教育」に関連するOSHOのヴィジョンには二つのメイントーンが流れることになります。つまり、ひとりの子供としての人間に向かって語る場合の「教育」ヴィジョンと、子供を育てる親に向かって語る場合の「教育」ヴィジョンのトーンです。
 ひとりの子供としての私たちに語る場合、OSHOの「教育ヴィジョン」は
 「自分自身でありなさい」、「自由でありなさい」、「責任を持ちなさい」、「服従してはいけない」、「妥協してはいけない」、「反逆者でありなさい」というトーンを持つことになります。そして、子供を育てる親としての私たちに語る場合は、
 「できるかぎり愛しなさい」、「どんなイデオロギーも与えてはいけない」、そして「けっして評価してはいけない」となるでしょう。
■OSHOの「教育ヴィジョン」のキー概念:ユニークさ
 なぜこんな極端な表現が出てくるのでしょうか。
 それはOSHOによると「誰ひとり優れているものはいない」し、「誰ひとり劣っているものはいない」。「誰ひとり平等ではなく」「ひとりひとりがユニークだ」からです。  OSHOは「平等という概念は心理学的に間違っている」と言います。
「誰もがアルバート・アインシュタインになれるわけではない。誰もがラビンドラナート・タゴールになれるわけではない。だが、あなたがラビンドラナート・タゴールになれないからといって、ラビンドラナート・タゴールがあなたより優れているわけではない。ラビンドラナート・タゴールもまた、あなたにはなれない。……。私たちは、優越と劣等、平等と不平等といった概念全体を破壊し、それをユニークさという新しい概念で置き換えるべきだ。個人はひとりひとりがユニークだ。ただ愛をもって眺めるだけで、ひとりひとりの個人が、誰も手にしていない何かを持っていることがわかる」と。うーむ。
■「教育問題」の真の難しさ
 ……これで、総論としては、私たちはOSHOの言うことはもっともだと思います。
 いや、人によってはこういう言葉をこそ聞きたかったと思うかもしれません。
 ところが、いざこれを自分が住む日常の現実に落とし込もうとすると、じつは一方的に負担がかかるのはまずは「親」としての私たちの方なのです。
 ここに「教育問題」の真の難しさがあります。
 なぜなら、絶えず身近な大人の、つまりは親の「評価」に晒されながら、子供にだけ人の評価から「自由」になれといっても、それは無理だからです。
 まずは、大人の方から、親の方から、子供を評価しないでいられる力を獲得しなければならない。ところが、人(あるいは子供)を「評価」しないでいられる力というのは、半端な力ではありません。なぜなら私たちの思考とか理性(OSHOはこれをマインドと呼びますが)は、人や物事を判断・評価するための体系そのものだからです。
 ここには従来の"教育や躾(つまり条件付け)"のエッセンスが仕込まれています。そして従来の"教育"とはすべて、「比較」や「競争」を前提とした社会の中で"より上手に立ち回るための"と言って言い過ぎなら、より良い経済状態を達成するためのノウハウの集積に他なりません。つまり、どこかで過去からの完全な"断絶"が必要なわけです。
■「教育」の変革の可能性
 親は良かれと思って、子供にさまざまの"期待"をかけます。子供はまた親の期待に応えようと努力し、親を模倣します。親は立派な人間になるように子供を督励し、子供もその線に沿って頑張ります。そしてそれがどうしても実現できなくなった子供たちから、"学級崩壊"から"殺人"に至るまでのあらゆる「教育問題」が噴出してくるわけです。
 そこで大人たちは、教育制度を、仕組みを変えたら何とかなるのではないかと考える。ところが、そうは問屋が卸さないわけです。
 「誰ひとり個人に充分に注意を向けた者はいない。そして、それがすべての問題の根源だ。個人があまりにも小さく、社会があまりにも大きく見えるから、人は社会を変えれば個人も変わるだろうと考える。だが、そうはならない。なぜなら『社会』とは、たんなる言葉だからだ。ただ個人があるだけで社会などというものはない。社会に魂はない。社会の中で変えられるものは何もない。どれほど小さく見えても、変えられるのは個人だけだ」
■「教育の五つの分野」
 OSHOが未来への自分の「教育ヴィジョン」を展開したものがあります。
 「五つの分野」に広がるその教育ヴィジョンは簡単に言うと
 @言語(国語と国際語)を含む、歴史、地理など、テレビ(コンピュータ支援の意味)で教えられる記憶関連分野。
 A自然科学(外界の科学:ここでは教師の役割は@より少し大きい。)
 B生きるアート。(愛、ユーモア、笑い、生への畏敬、嫉妬・憎悪などの克服)
 C芸術と創造性。(絵画、音楽、工芸、陶器など創造的なものすべて)
 D死のアート。(内面の科学:"死"が存在しないことを知るための瞑想、武道)
というものです。そして、必修科目はほんの少しでいいと言っています。
 多分、@国語と国際語、A算数、Bは必修、Cは本人が望む1分野、Dは必修、といったようなイメージでしょうか。
 そして、そこで何よりも大事なのは子供を「評価」しないということだと言っています。未来の学校には「テスト」はなく、教師の役割はほんの「ガイド」の役にすぎないと。
 不登校、いじめ、家庭内暴力など、現在の日本の教育環境を覆う病理現象はすべて、自分が潜り抜けなければならないさまざまの「競争」と、自分がこの世界で「生きる」こととのポジティブな意味関連を子供たちが見つけられないことに根本原因があります。ここで現れている"病的現象"自体は、じつは正常な生命世界からのメッセージなので、これを"矯正"しようとする意識からは、根本的解決は得られません。
 つまり、「子供の解放が最後の解放に」ならざるをえないわけです。

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