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「ツクヨミ」投稿文 綾部のサガプリヤ
綾部の朝

 目が醒めると、枕元の格子縞の障子が明るかった。
 顔を洗って、障子の外の濡れ縁にしばらく座り込む。
 柔らかい稜線の山々に周りを囲まれて、この建物(「あやべ青少年の家」)
はわずかに小高く盛り上がった開けた空間の中心に位置しているらしかった。
 目の前の庭とその向こうに広がる畑、その向こう側に、微かに蒼黒い樹々の
形を表して視界を限った山々には夜明けの薄靄がかかって、まるでお盆のよう
な形に、丸くこの開けた大地を守っているようだった。
その朝、何よりも不思議に思われたのは、大きな鱗をめんめんと連ねて薄い膜
のようにそのお盆の上をびっしりと覆って、ゆっくりと移動して行く不思議に
やわらかい雲だった。
 日本の神々のいます所。
 眼前に展開する朝靄の光景を眺めていると、そんな言葉が自然に浮かんで来
た。
 辺りがだいぶ明るくなって、サンダルを履いて外に出る。橋の所にいたアナ
ンドギートと並び、あらためて「綾部青少年の家」の大地を覆う雲の姿を眺め
た。
 「日本の神様も頑張ってるね」という言葉が思わず口から出たのは、最近読
んだばかりの『ヤハウエの巨大潮流預言』という本のことが頭に残っていたか
らだった。
アナンドギートは例のごとくにっこりと納得の相槌を打った。
荒唐無稽とも言える荒々しい話の前に、対する眼前の光景はいかにも優しく柔
らかだった。

 食事を終えて、初めて中庭を挟んだセッションのホールに入る。
 それぞれ座布団を手にして位置を決める人たちが増えるに連れて、久しぶり
のグループが始まっていくのが感じられた。
 前日の夜と今朝と、サガプリヤの姿は見かけていない。
 セッションホールに人が一杯になってから、薄い水色の上下に白いベストを
羽織ったサガプリヤが姿を現した。
 全員の期待の高まる中に、サガプリヤは緊張の様子を隠さなかった。
 何となくこの期待が落ちるということがこのグループのゴールになるのでは
ないかなどという、うがった感想が頭をかすめた。
 やわらかい音楽がかかってみんなが身体を動かし、少しずつグループが始ま
って行くようだった。
 モンジュに声を掛けられ今回この綾部に来ることについては、私にはまった
く迷いはなかった。
 サガプリヤのグループについて知っていることと言えば、『TSUKUYOMI』に
載ったモンジュのプーナ体験記がほとんど唯一の情報だったが、久しぶりのグ
ループに何かを期待したというわけでもなかった。
今回このグループに参加したことも、どちらかと言えば綾部の土地を一度踏ん
でおきたかったというのが正直なところだった。
自分の選択

 けれども、怠惰な日常を送っている者の一人として、こうして現実に自分が
参加したグループが始まってみれば、微かに一種億劫とでも言えるような気分
が起きている自分に気がついた。
 スタッフの紹介を終えると、サガプリヤは、全員に今何がしたい気分かを尋
ねる。
そして、何もしないでじっとしていたい気分の人はそのように、また動き回り
たい人はそのように、またどちらとも決めかねている人は、何となく決めかね
る気分でジベリッシュを言いながらぶらぶら歩き回るようにと指示を与えた。
私は何もしないで座っていることを選んだ。
するとじきに、自分の役割を一つずらすようにと指示が与えられた。
私は動きたい気分になって動き回るというわけだった。
そして暫くして、役割を三つ目に変えるように言われた。
私の場合はジベリッシュをしながら歩いた。
そして最後にまた元の役割に戻った。

「これがあなたが選んでいる選択です。
 決めかねて優柔不断にジベリッシュをしているあなたはどんな感じですか、
 それはあなたが自分で決めたことです。
 これがあなたの最も日常的な行動のパターンなので、あなたにとっては一番
 楽な在り方です。
 その意味では一番エネルギーの低い在り方と言ってもいいでしょう。
 ところで、どれが一番エネルギーの高い在り方だと思いますか」

あちこちから、三つ目の選択肢だと思うというような答が返った。
「私もそう思います。
 三番目の選択肢を皆さんが選んでいるときが一番エネルギーが高く感じられ
 ました。
 みなさんにとって一番緊張の高い状態だからです」

こんなふうに初日のグループは滑り出し始めた。
誰もが居心地の悪い状態を味わい、誰もが何故それが居心地が悪いのかを考え
させられ、そして自分の枠を広げるきっかけに直面させられた。
「イエス」

私たちはいつか部屋の中を回遊していた。
その中で私たちは、いつもの自分らしい自分を演じていた。
自分らしいと自分も思い、他人からも期待されていると思っている自分を。
その自ら決めた自分は、いつもの安全な自分、楽な自分でもあった。
そして無論、私だけがそうなのではなく、参加者の誰もが本人が決めた自分を
演じていた。
そして今度は、普段の自分からは外れた意外な自分を演じた。
自分では無理をした自分、他の参加者の期待を裏切るような自分を。
私たちは、出会い、身体を触れ合いながら、自分で想定した意外な自分を演じ
ていた。
そこで感じる勇気、そこで感じる居心地の悪さは、無論、同じように自分で決
めて自分が感じているものに過ぎないはずだが、それでもやっぱりその勇気と
居心地の悪さを感じないわけにもゆかないのだった。

居心地の悪さを感じているのは、他人に見られている「私」だった。
そして、見られている「私」は、実は私の中にしかいなかった。
つまり、その居心地の悪さを感じている者こそ、「私」だった。
それは他の誰によるものでもなく、ただ私だけが自分の上にかぶせた鎧の重さ
だったと言ってもいい。
そしてそれもまた、私だけがそうなのではなく、参加者の全員がそのように意
外な自分を演じ、自分勝手な居心地の悪さ、鎧を感じていた。
このように、楽に感じたり、居心地悪く感じたりしながら、私たちが身体を動
かしているとき、マイクからはサガプリヤの次のような声が聞こえていた。
「こうして身体を動かしマインドを動かしていても、あなたの中で決して動か
 ないものがあります。
 それは、肉体の内と外で起こっていることをすべて見ていて、ただ『イエス』
 と言っています。
 その『イエス』があなたです。
 その『イエス』を見つけてください。
 身体を動かすとき、必ずしもマインドが動かなければならない必要はありま
 せん。
 マインドは動かなくても、肉体はひとりでに動きます。
 肉体を動かして、あなたはただそれに『イエス』と言いましょう。
 そして『イエス』と言ったとき、自分の中で何が起こるかを見ていましょう」
と。
何時か、私たちはゆっくりと前進し、他の参加者と目が合うたびに相手を受け
入れ「イエス」と静かに口に出して言っていた。
「イエス」、「イエス」と。
やがて私たちは、その「イエス」を沈黙の内に響かせて、静かに水槽の中の金
魚のように回遊していた。
居心地の良さ

経験したところでも、また人の話に聞いたところでも、サガプリヤのグループ
にはあらかじめ決められたスケジュールというようなものは厳密な意味では存
在しないらしかった。
一応の目当てはあっても、それは時々のハプニングによって大きくずれ込むも
のであるらしかった。
意図せぬハプニングがあればあるほど、それはグループリーダーの予期を超え
て展開し、リーダーを困らせ、そして結果として最も思い出深いユニークなグ
ループになった、とサガプリヤは言う。
どのグループもそうなのかも知れないが、彼女のグループには、何らかの瞑想
セッションと、動きそのものが目的であるような軽いダンスのようなセッショ
ン、そして彼女を囲んでみんなが座り、サガプリヤが質問者に同調して自分の
中から出てくる解答を話すという、大きく分けて三つのパターンが織り込まれ
ていた。
たまたま初日の流れは、動きのセッションも、質問のセッションも、「社会の
期待から自分を剥して行く」というプロセスに対する気づきを呼び起こすもの
になった。
居心地の良い状態でいることが、いかに他人、つまり社会の期待に応えるとい
うことから成り立っているか、そしてそのことがいかに気持ちのいい「眠り」
をサポートするものであるかということに対する気づきが促された。
思い出してみればこの初日のセッションは、
「このグループは真実そのものに直面することを促していきます。
 夢を見ないこと、自分にとって居心地がいい自分の期待に見合った夢を見る
 のではなく、ありのままの真実を見てそのことを受け入れ、そこから起こる
 解放を味わいます」
というサガプリヤの言葉で始まったのだった。
 日常私たちはいかに周りの人間たちの期待する行動パターンの中で居心地の
良さを味わうか、またそのことによる自分の隷属に気がつかずにいるか、そし
てまた一方で他人に対して、どれほど期待の行動を取らせようと無意識の圧力
をかけるものであるかを気づかせられた。
魂の真実

私にはこの「ブッダズ・エクスタシー」のサガプリヤを、これまでの彼女と比
べることはできない。
ただ質問のセッションでの彼女の応答を見ていて感じることは、彼女は質問者
の言葉を充分に聞きながら、かつその解答はほとんど常に質問者の期待の範囲
には収まらないということだった。
質問者がある質問をする。
それは喩えてみれば、胸先三寸のところに前提された質問だったとしよう。
ところがその質問をじっくりと聴いて始まるサガプリヤの解答は、その質問者
の胸先三寸に対応することはほとんどない。
解答は質問者の質問が出てくる根拠に向かって、たちまち三寸から二寸、二寸
から一寸、そして質問者のハートの中の根拠へとどしどし割り込んで行った。
質問者はたちまち顔がこわばり、目が潤み、時には声を上げて泣かなければな
らない羽目になった。
魂の真実とは、誠にもって厄介なものだった。
普段どれほどそんなものは無いかのように振る舞っていても、何となく自分の
気持ちに引っかかっりがあって覚えていたというようなことはすべて、それこ
そが今回の生涯での肝心要の学習項目だとでもいうように、突然こんなところ
で飛び出して来なくてはならないのだから。

あるスワミの質問は、ノンサニヤシンである妻と和尚への関心を共有できない
ことだった。
彼女は和尚が大嫌いで、彼がこのようなグループに参加することも許容しては
いないらしかった。
しかし彼が思うに、妻も子供たちも無力であり彼が生活を支えなければならな
いことは確かで、和尚の道に進みたい気持ちと家族を離れられない自分とのジ
レンマに苦しんでいる、と涙ながらに訴えた。
相手の目をじっと見て何度も頷きながら彼の言葉を聴いていたサガプリヤは、
和尚の写真を見て和尚の言葉を訊くようにと彼に促した。

「笑っている」と彼は答えた。

そしてサガプリヤの彼に対する解答は次のようなものだった。

「あなたはある意味で、このグループのどの参加者よりも大きな問題を抱えて
 いると言えます。
 それはあなたが二つの道を選ぼうとして、自分の身を二つに裂こうとしてい
 るからです。
 あなたは和尚も家族も手放すことができない。
 奥さんはそのあなたに協力する気はない。
 この状況をあなたは瞑想することによって乗り越えたいと言います。
 あなたは瞑想についてまったく間違った概念を持っています。
 瞑想は、そのようなあなたの状況を楽にするためのものではありません。
 瞑想とは、どんな夢も持たずに、自分の真実に直面できるような気づきをも
 たらすための道です。
 もしあなたが瞑想を続ければ、あなたの苦痛はますます大きくなるでしょう。
 むしろ私はあなたには瞑想を止めることを薦めます。
 そして和尚とはすっぱり縁を切ることです。
 家族のもとにお帰りなさい。
 あなたは家族の中で、絶えず自分が与える立場に立っていたい。
 そして自分が常に強者であるという夢を持ち続けたい。
 けれどもあなたは弱い人間です。
 あなたは奥さんのことを、自分がいなければ何もできない弱い人間だと、子
 供たちもそうだと言っています。
 でも私の感じでは、あなたの奥さんはあなたよりずっと強い人です。
 奥さんは一人だけでも充分にやって行けるでしょう」と。

グループは呼吸の瞑想に入って行き、様々な段階の年齢退行を参加者たちは経
験したようだった。
しかしこういう所では私のマインドはしっかりと邪魔をし、私はただ眠ってし
まっただけだった。
家庭とサニヤス

グループの最後の日、サガプリヤがまだ名前を覚えていない参加者を中心に
してその周りをみんなが取り囲んで座った。
家庭と瞑想というテーマに対するサガプリヤの解答が、実は前日から持ち越さ
れていたのだった。
前日あるノンサニヤシンの質問を、サガプリヤは次の日まで取っておくように
と言ったからだ。
彼はこう言ったのだった。

「私は実はまったく質問などなくてこのグループに参加したのですが、さっ
 きの解答を伺っていて引っかかりが出できました。
 私には妻がいて、互いに相手のしたいことを邪魔しないという約束の下に結
 婚し、妻を愛している者です。
 しかし家庭を持つなら、瞑想を捨てなさいというような先ほどの言葉を聞く
と……」と。

その前日からの質問者に対してのサガプリヤの解答は、彼女自身の経験を語る
ことだった。

「家庭というものと和尚の道に従うということについて、私ももっとはっきり
 させたいと思っていました。
 昨日彼にああいう言い方をしたのは、彼の特殊な事情に対して言ったもので
 す。
 彼の奥さんは、彼が瞑想することを望んでいないし、色々な意味であなたの
 場合とは違います。
 家庭とサニヤスと言っても、個々のケースによってすべてが違い、一般的に
 言えることはあまりないかもしれません。
 それで私は皆さんに自分の経験を話したいと思います。
 私が初めて和尚を知ったとき、私も結婚していました。
 幸せな結婚だったし、彼を愛していました。
 瞑想を始めて何ヵ月か経って、私は和尚の写真に向かって、私はサニヤスを
 受けるべきでしょうか、と訊きました。
 和尚は『まだだ』と私に言いました。
 それからまた何ヵ月か瞑想を続けました。
 自分でもプーナに行きたくなり、また和尚の写真に尋ねました。
 するとそのときも、和尚は『まだだ』と言いました。
 そして何ヵ月か経って、あるとき私の中にはっきりした感じが起こって、私
 は夫にそのことを伝え、一人でプーナに行きました。
 和尚の許で、私は瞑想しました。
 私は和尚に、夫をプーナに呼びたいと伝えました。
 和尚の答は、『いや、その必要はない』というものでした。
 そして一年ほど過ぎて、私は夫の許に帰りました。
 夫には何も言いませんでした。
 しかし彼は私を見て、自分もプーナに行きたいと言いました。
 それから二人でプーナに行ったのです。
 プーナでは二人で一緒に住みました。
 色々なことがありましたが、彼が他の女性と親しくなったとき、私はこれま
 での生涯で最大の嫉妬を味わいました。
 長い嫉妬との戦いが続きました。
 そして私にも新しいボーイフレンドができました。
 最後に夫とは別れることになったのですが、そのとき私たち二人は、二人が
 結婚したときと同じほどに幸せで、相手を理解し、互いに感謝していました。
 今私は、ボーイフレンドのパラプレムと一緒にいて、互いの自由を尊重して
 います。
 パラプレムは自分の自由よりも私の自由を尊重してくれるほどです。
 私は昔、結婚していたとき、自分をとても幸せだと思っていました。
 でも、現在のそれを昔のそれと比べることはできません。
 あなたの質問に対する答になったでしょうか」
右足と左足

その後いろいろな質問があった。
あるマは、プーナから帰って来て自分には日本でやりたいことが色々あったこ
と、所が自分の実力のなさのために、現実にはボーイ フレンドとの関係も、
自分がみんなと分かち合いたいと思っていたこともすべて思わしく運ばなかっ
たと言った。
ヤショダのスター・サファイヤのセッションを受けたのだけれど、左足の重苦
しさがかなり極端になっているのでなるべく早くプーナに行った方がいいと忠
告されたのだが、自分としては納得できなかった、と彼女は言った。
サガプリヤは、もしかしたら自分の感じは違うかも知れないので私が見てみま
しょう、と彼女を前に呼んだ。
仰臥した彼女の足を靴下の上から左足、右足と両手で支え、身体の上1、2セ
ンチの高さの所で身体のエネルギーを見ていた。
それから彼女を元の位置に戻してサガプリヤはこう言った。

「確かにあなたの左足は非常に重い。
 私もヤショダと同じものを感じたと思うけれど、ただヤショダはあなたに幸
 せになって貰いたくてプーナに行くことを薦めたのだと思う。
 けれども私はあなたの幸せを望んでいるわけではないので、同じものを感じ
 ても私の意見は違います。
 あなたの女性性を表す左足は非常に健全です。
 自分がプーナで味わってきた素晴らしいものをみんなに分かち合いたいと思
 いながら、その分かち合いを相手に拒絶される度にいつもショックを受け、
 おどおどとしています。
 しかしあなたの女性性は非常に健全だと私は思います。
 むしろ私が問題を感じるのは、あなたの男性の側を表す右足の方です。
 あなたの中の男性は管理者のマインドを表現しています。
 おそらくあなたが日本に戻って来てセンター活動をしたいと思ったのも、そ
 の管理者のマインドを持つあなたの中の男性性の主導によるものだったのか
 もしれません。
 その男性が非常に強く、要求が高く、あなたの女性の側を常にプッシュして
 いるので女性の側がすっかり疲れきっているのです。
 けれども私はあなたが今、その状況を学ぶべきステージに来ているのだと思
 います。
 あなたの和尚に対する信頼は充分に高く、私はそれを信頼できるので、あな
 たはこのままもう少し日本にとどまって現在の状況を学習すべきだと思いま
 す」
 
そのあとサガプリヤは他の参加者たちの質問に答えながら、一般に痛みや重苦
しさが身体の片側に起こっているときは、必ずしもその痛みを訴えている側に
問題があるのではなく、問題はその反対の側にあることが多いのだと説明した。
その強い側の要求があまりに高いために、プッシュされるもう一方の側が耐え
られずに症状を表すのだ、と。
異性の選択

マイクを回されたあるスワミは、自分は特に問題はないのだがと前置きして、
現在は仕事にも人間関係にも、そして瞑想ということでも満足している、と
言った。
「リレーションシップは?」というサガプリヤの問に、彼は、強いて言えば、
今は身近に女性がいないことが問題だとも言えるかもしれないが、昔と違っ
て今はあまりそのことを考えないようにしている、と言った。
サガプリヤはその彼にこう答えた。

「確かにあなたの今の状況は安定していて特に問題はないとも言えます。
 しかし、あなたは女性との関係という一つの大きな探求の領域を閉じている
 とも言えます。
 あなたの男性性を表す右の目は、非常に自信に満ちています。
 自分で思うことをすべてこなしていけることが分かっています。
 生活的に困ることはないでしょう。
 けれどもあなたの女性の側を表す左目にはある種の揺らぎのようなものが見
 えます。
 あなたが二年前に関係を持ったというその女性は、社会的にはしっかりした
 人だったでしょうが、小さなことに異常に驚くような所のある人ではありま
 せんでしたか。
 そう。
 あなたの右目にはあなたの女性性のそのような未熟さが表れています。
 あなたは多分、その女性を自分には似つかわしくない未熟な女性のように感
 じたと思います。
 けれども、あなたの中の女性がそのような未熟さを持っている限り、あなた
 は必ずそのような女性に惹かれることになります。
 だから今の生活に問題はないかも知れませんが、自分の中の女性を成熟させ
 るような経験も必要だと、私は思います」

間違った相手を選んでしまった場合はどうなるのか、という別の参加者の質問
に対して、サガプリヤはこう答えた。

「相手の選択を間違うということはありえません。
 これまで、間違った異性を選んだ人には一度も会ったことがありません。
 間違った選択はマインドがするものですが、この選択はマインドの選択では
 ないからです。
 必ず自分にとって必要な経験をさせられる異性を選ぶことになります。
 それを決めているのは自分の中の異性で、いわば物理現象のようなものだか
 らです」

周りを取り囲んでそれらの応答を見ている参加者にとっては、こういうやりと
りはグループの流れの一つの節のようなものだと言えた。

自分に起こる理解の根拠を、サガプリヤはレゾナンス(共鳴現象)という言葉
で描写していると聞いたが、確かに頭を微かに左右に揺すりながら質問者の世
界を感じようとしているサガプリヤの姿は、一瞬白魔術の魔法使いのように見
えたりもした。

初めて彼女のグループを経験する私などは、サガプリヤの言葉の鋭さと切り込
みの深さにだんだん恐れをなして行くようなところがあったが、ビジェイによ
れば、どこまで深く切り込むかの見切りはサガプリヤの場合は完璧で、相手が
支えられないほどの深手を負わせることはないのだ、ということだった。
仏陀の法悦

質問のセッションがある程度続き、身体が緊張してくると、グループは動きの
セッションに入った。

「次に何が起こるか分からないという状況に対する責任を、これまで私一人が
 取ってきました。
 これからは少し、皆さん一人一人にその責任を取って貰おうと思います。
 これからしばらくの間、皆さんが自分で自分の瞑想を起こらせてください」

こんなふうに何の目当てもなく起こって行くかのように見えた瞑想も、徐々に
ある種の動きの中に織りなされて行き、私たちは何時か目をつぶってゆっくり
と部屋の中を移動し、誰かと身体が触れては直角に回転し、また別の誰かとぶ
つかり合っていた。

「これが私たちの人生の状況です。
 これが起こるべき姿なのです。
 それに何かを言うのではなく、そのことにただ『イエス』と言いましょう」

私たちは、暗闇の中をゆっくりと歩み、誰かに触れるたびに「イエス」と言っ
ては反転していた。
その不自由さは、何かかえって不思議なほどの安らぎのようでもあった。
私は何時か、真空の暗闇の中で無心に戯れる素粒子たちの世界を思い描いてい
た。

「出会いの瞬間に弾けるそのエネルギーを『愛』と呼んでも構いません。
 けれども、愛という言葉はあまりにも別のニュアンスで汚されていて、今で
 は真の意味を担えなくなっています。
 ですから今は『愛する』という言葉の代わりに、『セレブレイト(祝う)』
 という言葉を使うことにしましょう」

私たちは、暗闇の中で誰かに出会うたびにその出会いを祝った。
最初の「イエス」は、やがて「私は見ている」、「寛ろいでいる」という表現
と、「祝う」、「笑う」という二つの表現へと分かれていった。
それはエネルギーそのものの表現の二つの方向であるらしかった。
目を開け、形を持つ者を対象としたときは、むしろ「祝う」ことが自然であり、
目を閉じ無形のものに向かえば、「寛ろぐ」ことが自然なのだった。
共にそれは「イエス」であり、同じエネルギーなのだと彼女は言った。
私はこのセッションを続けている間、「仏陀の法悦」という言葉と、真空の中
に物質と反物質が一瞬現れ、それがまた一つになって真空の中に消えるという
「空」のイメージが交差するのを感じていた。
物質と反物質が生起するその瞬間が「祝う」であり、二つが出会って真空の中
に消える瞬間が「寛ろぐ」だった。
それはマインドの濃い靄を透して微かに感じられた仏陀の歓喜かもしれなかっ
たし、あるいはマインドが捻出した仏陀の法悦とも言えた。
しかしそれは一種の無心のイメージでもあり、もしマインドという重荷がなけ
れば、どれほどの歓喜が弾けることかと推察させるほどには確かな実感でもあ
った。

「理由もなく歓喜するこの『イエス』があなたです」。

サガプリヤの声が聞こえていた。
ありがとう

貴重な体験だった。
無論、私のマインドが止まることはなかったが、私(のマインド)は常に途方
に暮れながら当たり前だったし、何を期待してもいなかった。
何もかもが当たり前のテンポで、誰にもいちばん自然なことが自然に起こって
いた。
もし私の側にいかなる努力もなかったら、それはもっと素晴らしかったのかも
知れないが、不可能を望むこともなかった。
「もっと」など存在しないと、何時も和尚が教えてくれているのだから。
私の趣味で、それは「何ともない」と言ってもよかったが、「イエス」という
今度覚えた言葉もとても良かった。
あまりにも切れるサガプリヤの言葉は、どうしても相手を傷つけることなしに
は済まないだろうと思われたが、そのこと自体を意図してもいるのだろうから、
グループという仕事を実に過酷な芸術にまで仕上げたものだという想いが自然
に沸き起こった。
だからサガプリヤは恐ろしい人だという噂も知らず、ある意味ではきわめて気
楽な参加だったのだが、セッションが進むに連れて恐ろしくなって行ったとい
うのが正直な感想だ。

サガプリヤはよく泣いた。

「和尚は、『私は正しい人たちを見つけた。
 私が肉体を離れたら、私はそのたくさんの人たちの中で生きて行くだろう』
 と言いました」

と言って、彼女は泣いた。

「これまでたくさんの人たちが和尚の許に集まって来ました。
 プーナ1でも、プーラムでも。
 その時その時、色々なことが起こりましたが、何時もそれをリードする人た
 ちは違っていました。
 今、プーナ2をリードしていた人たちはいません。
 そしてこれまで和尚のムーブメントにあまり関わってこなかった人たちが参
 加してきています。
 それもプーナだけではなく、世界中で。
 これをプーナ3と呼ぶことにしましょう」

グループが終わってみんなが打ち上げパーティのアイスクリームを食べている
と、前方の山に微かに虹がかかった。
綾部の神々が喜んでくれているようだった。

サガプリヤ一人でこのグループが起こったのではなかった。
まるで神経が露出しているような感じの彼女をいつも守って、パラプレムとヤ
ショダがいた。

みんながひたすらエネルギーを貰いたがっているとき、「イエス」の気づきを
みんなにシェアすることでサガプリヤにエネルギーを送ったジュニ。
彼女を前にするとたちまちみんなの踊りが本物になったニーシャ。
たくさん涙を流してくれた質問者たち。大相撲でサガプリヤを休ませて上げた
人たち。
プラバンの通訳は素晴らしかった。
あのような精緻なマインドを働かせるサガプリヤのグループでは、通訳の役割
は非常に大きいものだと思った。
そして今度のグループを企画し、主催してくれたモンジュ、ブミカ、そして大
明神荘の人たち。食事も美味しかったよ。
ありがとう。

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