第一回SAPIO賞応募原稿
――課題:世界の中の日本●日本は国際社会の中でいかに生きるか――
「得」の経済学
(「SAPIO」1991年12月26日号誌上で第1回『SAPIO賞』受賞)
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時代が日本に求めるもの
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廂 (ヒサシ) を貸したら母屋まで乗っ取ったお前なのだから、もういい加減に部屋住みのような態度は止めて、一人前の大人としてこれからの世界をどうするのかの議論に参加しなさい。世界は地球になった。もはや収奪のための草刈場ではあり得ないことが分かった。お前は一神教を持たずに高度の工業水準に達したほとんど唯一の国なのだから、今度はお前の方から私たちに教えてくれることがあるのかも知れない。お前は本当にみんなが思っているようなエコノミック・アニマルなのか。そんなことがあり得るのか‥‥。
こんな声が聞こえてくるようだ。いや、無論現実の国際社会がそれほど親切に日本に期待してくれることはないだろう。だがこれから日本人が日本人としての役割を果たすのは、国際競争社会の中での生き残り戦略として必要なのでは多分ない。日本はそういう時代を生き終えた。日本人はそんなことのためにこれほどの能力と、特殊な歴史的経験を持たされたのではないかも知れない、と考えてみるのはいいことだ。
今や、日本人がこれまで最も避けて来たこと、最も苦手であったことでその力を試されていることだけは確かだ。日本人は今初めて、自らの価値観のエッセンスを提示するように試みられているのだ。
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日本人の行動規範
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江戸三百年の間に、日本人が自分の行動規範として作り上げたものには、大ざっぱに言って「士農工商」の四つのタイプがある。
その四つは江戸三百年の間は一応階級として固定した別々の階層の行動規範だった。だが、開国を迫られ、この四つの階級を半ば他動的に取り払われた明治以後の日本人が、手近にこの四種類の階級倫理以外のものを持たなかったことも事実だ。
しかし固定された階級がすでに消失している以上、以後日本人はどれか一つの行動規範で生活の全場面を賄うことはできくなる。かくて明治以後の日本人は、生活の各場面で無意識のうちにこの「士農工商」の四つの規範を使い分けることになったと思われる。
日本人が唯一集団的な目標を持ち得る民族だと言われるのは、この内の武士の行動規範を採用している場面だろうし、最も高く評価される商人的才能は、配慮の細やかさと、いわば世間をしか真の神とはしない血の中にまで入った気配りの神経の賜物と言えるかも知れない。また日本人が自分の「得」をしか考えないと言われるのは、語弊はあるだろうが、自分に百姓的自我をあてはめている場面だと考えられる。
が、もともと「士農工商」が分裂した行動規範である以上、その枠を取り除かれた明治以後の社会では、そのどの行動規範に則って身を処しても、日本人のエゴはいささか安定を欠いた何がしかの後ろめたさを伴ったものにならずにはいなかった。
誇張して言えば、まるで自分の都合など存在せず、公 (オオヤケ) にしか関心がないかのような振りをするのも(「士」)、逆に公共(=全体)など自分が考えるべきことではないかのように振るまうのも(「農工商」)、分裂した片輪な規範だったからだ。
明治以後の日本人が、国際社会と付き合う上で採用したのは、最初まず主として武士の規範であり、ついで敗戦後の経済復興の中で企業のリーダーが採用した商人の規範だったと言えるだろう。だがその日本人が一人の人間として立ったとき、腹の底に残る本音の規範は「農」のそれではなかっただろうか。
ここで「農」の規範を、語弊があることを承知で、フランスの小話の「石のスープ」にあるような、あるいは映画『七人の侍』にあるような、何とか“お上(公共の社会)”の目をごまかしその収奪を免れればいい、という本能的規範を意味するものとしよう。
だが、要は自分さえ損をしなければいいというような行動規範を、公の議論で自己正当化の論点として提出するわけにはいかない。それはもともと、利害の異なる他者を説得できるような一人前の人間のトータルな規範ではなかったからだ。
では国際的議論の場で自分の立場を明確に述べられるように、日本に禁止項目からなる一神教的世界の道徳を取り込むことができるだろうか? 日本でのキリスト教の布教限界を見るまでもなく、そんなことが不可能であることは言うまでもない。いまさら日本人を対神恐怖の世界に移すことなど、出来もしなければまた必要でもない。
日本人は、人格的創造神が本当はフィクションであることを誰もが“知っており”、「神は死んだ」と教えられて驚倒するものは誰もいない。しかしまた、「神がいなければ、どんなことでも許される」という言葉がどういう意味を持ち得るかを理解できるわけでもない。即ち、「神は死んだ」という言葉を真正面から受けた一神教の世界の住人の恐怖と虚無感を密かに笑うことはできても、それがいわば日本人にとっての「天皇制の終焉」にも当たる恐怖かも知れないとは思い及ばないからだ。
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日本人の言語経験と判断力
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キリスト教、回教など、ユダヤ教に淵源するいわゆる一神教の支配する世界では、自分の行動基準を常に神との契約として意識することを要求されて来ており、他者に対する自分の行動の正当化は彼らにとって日常的な訓練にまでなっていると言っていい。
それに対して、いわば世間を神とする日本人の場合、自分を律している規範を他人に対して明確に表明する必要などなかった。相手も考えずに思うところを述べ自分を正当化するなど、禁圧されても奨励されることではなかったからだ。日本人の主張は常に相手との関係で表現され、日本語の構造そのものがその目的のために最適化されてもいた。
日本人が何かを言う場合、言うべき内容(=事実)に対する考慮と、聞き手に合わせてその内容(=事実)をどう案配し表現するかは、ほとんど等価とも言える重要性を持っており、日本人としての存在証明はむしろ後者の部分にあると言っていい。
このような日頃の訓練が積み重なってくるに連れ、日本人は自分の行動規範を意識し明確に表現する能力を失って行っただけではなく、その行動規範そのものが状況の中で、また相手との関係において流動するような世界に入ることになったと言える。
日本人は自分の中に確固とした明確な行動規範を持つことを避けるようになった。どんな席でも何時も平気で同じ自分の考えを述べるような人間は、日本では「変人」、「世間知らず」であり、「出来た人」たちの世間で大抵は落伍者にしかなり得なかった。
つまり、多少誇張して言うなら、日本人の議論は「対象の論理的な内容」と「その場の前提(=空気)」の二つのものの見極めに依存しており、日本人としての躾はまさにその業の熟練にこそあった。言い換えれば、日本人は議論を一種の「ごっこ」として演じて来たわけだ。ただし、実は言葉の「論理的な内容」については「ごっこ」であっても、「その場の前提」の見極めについては「本気」だったと言わなければならない。それがどんな「ごっこ」であるかについては真剣に察知しようとしたのである。
日本人は「和」を尊び、人の思いを傷つけることを恐れて、逆に自らの人間としての判断力を、人間としての尊厳を犠牲にして来たと言える。
明治の文明開化で西洋文明を取り入れたとき、日本は西洋世界から結果として存在していた技術だけを輸入し、その文明を形作った価値観を排除した。この選択がどれほど賢明であったか愚かであったか、自然であったか不自然であったか、それ以外の選択もあり得たのか、一概に決められることではない。だがその時日本人が拒否せざるを得なかったものが、拠って立つ行動規範を明確に言葉で定義する一神教世界の価値観の持ち方だったことは間違いない。イデオロギーを拒否するというこの選択は、世界の中で日本人に極めて特殊な経験を強いた。恐らく日本人はこれからの何年間かで、この経験の意味を身をもって実証すべき役割を担っているのだろう。
だが、様々な歴史的経緯の中で培われて来たこのような条件付けが日本人の、
大地に一人立つ人間として、自ら総合的な「判断力」を持つ勇気を、
一人前の人間として、誰とも「対等に」付き合う能力を、
著しく損傷したことだけは疑いない。ところが、今や国際社会が日本人に追求するものこそ、実は地球の「対等な」住人の一人としての総合的な「判断力」なのだ。
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視点から抜け落ちていたもの
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日本が国内的にはそれなりにうまく機能しているとはいえ、その国内状態が世界とのつながり中で保持されているのは自明のことだ。そして今、日本人の行動規範そのものが世界から問われ始めているとすれば、今まで日本人の視野に入っていなかったことが実はあるのかも知れない、と考えてみるのはいいことだ。
これまで日本人が無視してきたある価値観の世界があって、日本人はそれが何かを知っていると思ってきた。自ら知っていてそれを無視したと思って来た。だが無視とは、実は無知の別名に他ならない場合がある。知っていて無視しているつもりが、実は知らないが故の無視、つまり無知故に起こった無視だったのかも知れない。
日本人にとってまったく不要と思われたイデオロギーの世界は、実は大地に立つ一個の人間としての総合的な「判断力」を持つための、一神教的枠組みだったのだと思ってみよう。一神教の世界ではそれを明確に言葉で定義する必要があったのだ。
日本人は「全体」を、「家」とか「藩」とか「国」とかいった、いわば中間的、相対的なリアリティとしてしか構想しなかった。いわばその「相対的全体」を盾に自分の正当性を主張しようとして来たと言える。その「全体」はあくまでも人間社会の一部である以上流動的でしかあり得なかったが、日本人はそれを当然のこととして受け入れたのだ。
だがその「全体」を「絶対」として、不動のものとして構想せざるを得ないよう必然性を持つ世界があったとしても、それもまた了解可能なことではないだろうか。そしてたまたまそうであった一神教の世界が、その「全体」に創造神という人格神を当てることで人間の世界を反映させる道を採ったとしても分からないことではない。
何れの道も了解可能であり、絶対的に正しくも、また絶対的に間違ってもいない。いわば「全体」という頂上に向かう別な登山道であるに過ぎないだろう。
自らの拠って立つ行動規範を絶対者との契約として明確に言語化する必要を感じた世界も、「全体」を親類縁者からなる血縁社会の延長として構想した世界も、共に理解することが出来るし、それだけにどちらをも絶対化する必要はないのだ。
地球上の人間意識の発展が、いくつかの道を採った豊かさを喜べばいいだけだ。
ただ、イデオロギー世界からこれほどの技術的成果を貰い受け、これほどの物質的豊かさと特殊な経験を持たされた日本人は、それに見合ったものを世界に、いや地球に返さなければならないのかも知れない。それには物質的富を還元するだけではなく、「全体」を血縁社会の延長として構想した自分たちが、価値観、判断力の分野で、今何を世界に貢献できるのかを考えてみる必要があるのではないだろうか。
世間の中で上手く身を処すための処世術以上のものを一切必要としないと言えるならともかく、東洋の一小国日本の住人の間にも、死生観を含め、大地に一人立つ人間としての「判断」が存在しなかったはずはないからだ。
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「得」に欠落しているもの
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地球上の様々な民族の中で、日本人だけが生きる意味を必要としないはずはない。
日本人の脱イデオロギー性、無宗教性、状況倫理が、生の全体を映すためのひたすら愚劣で浅薄な鏡だったとばかりは思われない。
だとしたら逆にそこに、どんなイデオロギーもどんな宗教も相対化できるような、そして論理そのものの限界を意識した新たな“自覚的状況倫理”を創出するための肥沃な土壌の潜在可能性を見ることだってできるはずだ。
だがそのためには日本人自身が、自らを律している本音の行動規範を意識化し対象化できなければならない。そうして初めて、日本人の超能力とも言える状況を「察知する」能力が、論理の翼を得て真の「全体」を構想するような普遍性を持ち得るのだ。
日本人の本音が百姓的自我、わが身一身の「得」の追求であったとしても、何も不思議ではない。日本人が飢えを知らなくなったのは近々数十年のことに過ぎないのだから。
では何故日本人は、自らの本音の行動規範を表明することに後ろめたさを感じてしまうのか。それは実は、その本音としての「得」の中に単に「全体」という視点が欠落していたからに過ぎない。だからこそ後ろめたさを感じ、自らの意志の主張にこれほど臆病になり、自分の本音を常に隠さなければならないものと思ってきたのだ。
欠けていたのは単純な事実の理解だ。自分の「得」が全体の中で成り立っていること、実は自分だけが「得」することなどあり得ないこと、全体が“「得」をする(よりよく機能する)”ことしか結局は自分の本当の「得」になり得ないことを理解すれば良かっただけだ。情報のフィードバックが加速されるこれからの時代、このことはますます短い時間の幅の中で証明される事実になって行くだろう。
神との契約を自らの行動規範とする場合、全体に対する見晴らしは絶対化された神の側からもたらされるものとして、ある意味では無視することができる(あんなにも愚劣な宗教戦争があり得るのはそのためだ)。しかし「得」を求める行動規範にとっては、「何が」得をするのか、「得」の主体として何が本当にリアルなのかを無視はできない。
何が「得」かは、あらゆる主体、あらゆる状況において固定的なものであるわけではない。「得」とは、本人の欲望と相対的なものだからだ。経済学とは、「得」の焦点を物質的な価値に限定した場合の、その価値の流れの記述に過ぎないのだから。
これまで国際社会の中で実に効果的、効率的に動いて来た日本人が、実は何が本当に「得」かの“生命の経済学”を知らなかったということはあり得ることだ。
そしてそのような自分の欲望を意識化していく作業は、過去に西洋社会が絶対化し、今やまさに崩壊しつつある創造神との契約という固着した構図よりはずっとリアルであり、将来国際社会に対してより大きな説得力を発揮する可能性を秘めていると言える。何が本当に「得」かは、何が本当の「幸せ」かの問いと通底しており、それは人間の進化、あるいは理解の深まりそのものを反映し得るからだ。それは“誰”がリアルに存在しているのかの問いと何時かつながり、新しい世紀へ向けての人間の理解そのものを総体として包含し得る大きな枠組みになることができる。
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日本人は何を貢献できるか
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一神教の世界の住人たちも、世間教の住人である日本人も、共にどこかで判断を停止する。そしてその判断停止したところで欲望する。おそらく自らの欲望を全面的に肯定し、どこまでも判断停止することなく考え、その欲望の実現に向かえば、一神教の世界の住人と世間教の住人である日本人の自己正当化の議論は出会うことができるはずだ。日本人は臆することなく、後ろめたさを持つことなく、自分の「得」と、世界の「得」と、地球の「得」を一つのものとして構想する力を持ち、発想し、議論し、説得する力を持つことができるだろう。そうすれば、何時か「得」と言うような若干みみっちいとも言える表現は本来の素直な表現に昇華する時が来るかも知れない。
そしてその場合、最も根本的な、基礎的な作業は、教育の中に秘められていることは言うまでもない。
必ずしも日本の子供に限らないが、子供たちは教育の過程であまりにも多くの評価に晒され、ただただ判断停止することだけを身に付ける。だが二十一世紀を生きる彼らに過去の判断(=条件付け)をひたすら押し付けることが本当の「得」になることかどうか、よくよく考えてみなければならない。
私たち一人一人の人間は、日本人でもなければ、アメリカ人でも、フランス人でもない。二十一世紀に生きる人間が本当に持たなければならない観点は、日本の生き残りでも、日本の繁栄でもない。なぜならそんなものは頭の中にしか存在しない幻に過ぎないからだ。リアルに存在しているのは、一人一人の個人であり、一つ一つの命ある生きものであり、そしてその総体としての生命の星地球であるからだ。
私たちはこのことを議論のための建て前としてではなく、自分の本音として理解しなければならない。そしてその生きものの代表として本人が最もリアルに受け持っている存在、自分の真の「得」=「幸せ」を求めるガッツを持ち、そのことを述べることにどんな後ろめたさも持たない理解が起これば、日本人の言葉は国際社会の中で最も説得力を持つ一つの観点になり得るはずだ。それどころか、地理的に東洋の一国であり東洋の知恵のエッセンス「禅」を花開かせた国、そして西洋の技術文明をこれほどまでに消化した日本にしてみれば、地球の中でそのような役割を果たすことこそ本来の役目であることを理解すべきだ。日本人がそのような役目を果たすとき、“「得」になるようにすればいい”という本音が地球の未来を包含し得、日本が秘蔵する“柔らかいソフト”の秘密を国際社会への贈り物として提供し得ることに驚きもし、喜びもするはずだ。
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